10話 「おかえりなさい」
雨の日に外に出るのは、なんとなく好きだ。
視界を悪くする水のカーテンをくぐって、アスファルトを踏みしめる。しぶきを上げて走る車、やけに響く歩行者信号の音、ぼやけた街灯の光。
こんな中で歩いている人は、きっとそれなりの理由がある。彼らの足は、目的地へ真っ直ぐ向かう。
その中で一人、ふらふらと漂うのは心地いい。社会の歯車から浮遊して、一時の休息に浸る。そういう時間は、嫌いじゃない。
けど今回は少しばかり、目的みたいなものがある。買い出しと、会えれば傘を届けること。
念のため古河に許可を取り、彼女のぶんを借りてきたのだ。
七瀬さんの連絡先は知らないので、こればっかりは完全に運になる。会えたら会えたでいいし、会えなければそれはそれで構わない。
学校、行ってないだろうからな。
聞かなかったとはいえ、そのくらいのことは予想できる。彼女の生活は、不自然なところが多すぎた。
となると、いるのは学区の方向とは逆。この間ばったり会ったあたりではないか……と推測。そのへんの喫茶店かファミレスで雨宿りをしていればいいのだが。
「いないか」
店の前から確認するが、それらしき姿の人はいない。すれ違ったか、あるいは俺が見当違いの方角へ進んでいるか。
それか……いや、まさかな…………でも。
あり得ないとは思いつつも、足は川へと向かう。雨風をしのぐような設備はない。そんな場所にはいない――いないでくれ、と願っていたのだが。
早歩きで向かうと、そこには見覚えのある後ろ姿。ぐっしょり濡れた上着と、しおれたツインテール。
降りしきる雨の中で、彼女は立っていた。立ち尽くしてた。というほうが正しいかもしれない。
「七瀬さん、こんにちは」
傘を折りたたんで、隣に立つ。
雨は強く、大きな粒が全身に打ち付ける。
こういう感触を、こうしたくなる感情を俺は知っている。決して同じだとは言わないけど。
「……どうして傘を差さないんですか?」
「俺くらいになってくると、逆に差さないんだよ」
「意味わからないです」
俯いて小さく、もう一度「意味わからないです」と呟く。
「なんとなくだよ。人に言うような深い意味はない」
「……迎えに来てくれたんですか?」
「買い物のついで。許可もなく迎えに来たら、なんか気持ち悪いだろ?」
「そうですね。ホラーです」
「そんな言わんでも」
だが実際、さして親しくもない男が急に来たらビビるだろう。これが男女逆転しても同じ――いや、年上のおねーさんが迎えに来てくれたらだいぶ嬉しいな。
男と女は完全に別の生き物だった。
「傘いる?」
「もう手後れですよ」
「だな」
ぽたぽたと髪から水が滴っている。この様子だと、鞄も浸水しているだろう。
「帰る?」
「……はぁ。そうですね。人に迷惑をかけるのは好きじゃないので。素直に帰ります」
「えらいえらい」
適当に返すと、七瀬さんはむっと唇を尖らせ、上目遣いでじろっと睨んでくる。
「バカにしてますよね」
「ごめんつい」
「っていうか傘差してくださいよ。なんであなたまで濡れてるんですか」
「頭の皿が乾きそうでさ」
「カッパか」
「雨が降ってると素早さが二倍になるし」
「……?」
「すいすい。っていう特性なんだけど、知らないか。まあ知らないよな」
ジェネレーションギャップ、露骨に感じ取ります。これだから中学生との会話は難しい。特に女子ともなると、本気で話題が見つからない。
個別指導のときは、淡々と授業をするマシーンになっているけど。時間が余ったときとかは、けっこうな地獄。
「戸村さんって変な人ですよね」
「いい意味で?」
「悪い意味です。変な人って、いい意味で使わないですよ」
「え、でも同い年の女子から『戸村っていい意味で変人だよねー。おもしろーい』って言われたことあるけど」
「それはネタ枠です。確実に見下されてますよ」
「女子こっわ」
薄々気がついてはいたが、ちゃんと言われると怖いな。
にこにこしながらナイフを刺す、猟奇殺人鬼みたいだ。
「っていうか、買い物はいいんですか?」
「忘れてたなぁ」
「『忘れてたなぁ』じゃないんですよ。なんでそんなに落ち着いてるんですか」
「生死に関わる問題じゃないから」
「緩すぎませんか!?」
「もし忘れて帰っても、深めに土下座すれば許してくれる」
「プライドはないんですか……」
七瀬さんは絶句していた。
「それでもダメなら、お菓子買って渡すさ」
「やっぱり戸村さん、女の子をお菓子で手なずけようとしますよね」
「手なずける? まさか。供物を捧げているだけだよ。いつも仲良くしてくれてありがとうございます。って」
「卑屈すぎです」
こちとら女子だらけのシェアハウスに入居してしまった異分子。先住の神々の怒りに触れれば、簡単に滅ぼされる小さな命。
今の生活はそこそこ気に入っているし、長続きすればいいと思う。
雨は少しずつ弱まって、空から光が零れる。
隣から聞こえる声は、どこか恨めしげに言う。
「……いいですね。気楽な人は」
ちらっと視線を向けると、少女は気まずそうにしていた。言ってから後悔したのか、「いえ……あの、そういうわけじゃ」と口ごもる。
「いいだろ」
「へ?」
軽く笑って見せると、間抜けな音が聞こえた。
「真面目に生きるほどの体力はないからさ。適当なくらいがちょうどいいんだ。俺はね」
誰もがそうであるとは言わない。俺には俺の意見がある。それと同じように、人には人の意見がある。一つ一つが正しくて、一つ一つが間違っている。生き方なんて、そんなもんだろう?
「ずぶ濡れだと説得力ありますね」
「ははっ。そうだな」
ミイラ取りがミイラになった。だが、後悔はしていない。
家の屋根が見えてくる。着替えたら、今度こそ買い物に行こう。
「雨に打たれたい日は、誰にだってあるよ。大事なのは、風邪を引かないことだ」
「はい」
鍵を開けて中に入る。
たったった、とキッチンから足音が近づいてドアが開く。
「あれ、ゆずちゃんだ。見つかったんだね」
「おう。でも買い物はまだだから。着替えて行ってくる」
「頼んだよ戸村くん。赤味噌がないと、今日の晩ご飯は具の入ったお湯だよ」
「この命に替えても買ってくる」
二階に上がって服を着替え、ドライヤーで髪を乾かし、別の靴を履いて再び家を出る。
雨は止み、二度目の外出に傘はいらなかった。
◇
近くのスーパーで目当ての物を買って帰る。
玄関を開け、荷物を下ろして靴を脱ぐ。タイミングよく、二階から足音。慎重な足取りで降りてきたのは、湯上がりの七瀬さん。温まっているらしく、頬がほんのり赤い。
これで風邪を引くことはないだろう。安心安心。
髪をほどいてジャージ姿で、やや棘のある視線。
「なに見てるんですか」
「日本の未来」
「そういうことじゃなくて」
「ただいま」
なにか言いたそうだが、スルーしておく。あんまりじろじろ見るのもよくないし。だからといって、会話の相手を見ないのも失礼だし。板挟みを脱却するには、打ち切るしかないのだ。
「…………」
帰宅の挨拶をしただけなのに、なぜか七瀬さんは固まってしまう。
手を後ろで組んで、唇をとがらせ、
「おかえりなさい」
それだけ言って二階へ駆け上がっていった。
ものすごい勢いで、声を掛ける暇はなかった。