9話 いってきます
帰省!
それは大学生にとって、特に語るべきことはなにもないイベントである。
離れた場所からかつて暮らしていた場所へ戻り、親に顔を見せ、中高の友人と集う。人生において前進も後退もない、ただ振り返るためだけの時間。
それは大切なものだけれど、今の俺にとっては焦れったい時間だった。
思い出話に花を咲かせるのは楽しい。
でも、思い出を作りたい人たちが今の俺にはいるから。
やることだけやって、すぐに穂村荘へ帰った。
◇
お盆が終わってすぐの穂村荘は、そわそわした空気が漂っていた。
家にいる全員があっちこっちへ歩き回り、落ち着かない様子でいる。もちろん、俺もその一人だ。
「日焼け止めよし、着替えよし、充電器よし、ゲーム機よし……うん。忘れ物はなさそうだな」
キャリーバッグに不備がないことを確認して閉じる。目の前にいた七瀬さんが、呆れたような目でこっちを見ていた。
「一つ余計なものがあった気がしますけど」
「着替え?」
「一番必要な物ですよね!?」
「確かに服なんてコンビニとお土産屋さんで買えるけど」
「向こうで手に入るからオッケーって話じゃないですからね? ゲーム機ですよ、ゲーム機」
「確かにそれも現地で買えるね」
「もうっ!」
頬を膨らませる七瀬さん。
「持っていってもやる時間ないですよ。重いだけです」
「うぅ……さよなら……さよなら…………」
「ちょっとの間じゃないですか。それくらい我慢しましょうよ」
「依存症の人には優しくてほしいな」
「だったらなおさらです! 先輩のためを思ってるんですから」
「まあ、冗談なんだけれども」
もう一度パカッとキャリーバッグを開いても、そこに愛用のゲーム機はない。今回はお留守番だ。帰ってきたら思いっきり可愛がってあげるとしよう。
「なんですか……ちょっと心配しちゃったじゃないですか」
「大丈夫だよ。ゲームならスマホでもできるからさ」
「そういう問題じゃないんですけど」
恐ろしいものを見る目をしていた。とうとう俺、呆れから恐怖に変わったらしい。成長したな。嫌な方にだけど。
「そういう七瀬さんこそ、勉強道具とか持ちすぎてないよね」
「はい。ルーズリーフと単語帳だけです。ボールペンだけあればいいので、筆箱も置いていきます」
「完璧。じゃあこれ、俺のタブレットPC。パスワードは外しといたから、スリープを解除して、デスクトップの『七瀬さん問題アリ』ってファイルを開けば問題が入ってるよ」
「ファイル名に悪意がありませんか?」
「ほんの十割ほど遊び心を加えてみたんだよね」
「全部じゃないですか!」
すっと指を伸ばして、ファイル名を変えようとする七瀬さん。だが、使い方がわからないらしく、固まってしまう。
「どうすればいいんですか、これ」
「それも勉強だよ」
「じゃあ、教えるのは先輩の仕事です」
「確かにその通りだ。ここのタッチパッドを使ってカーソルを動かして、右側を押し込む。そうすると、いろいろ出てくるから、『名前の変更』ってやつを選択。あとは好きなように打ち込んで」
こくこく頷いて、「ありがとうございます」と礼儀正しく言い、無慈悲にファイル名を『問題』に変えるJCさん。俺の努力が……。
七瀬さんはそのままファイルを開いて、中の問題を確認し始めた。
いちおう全教科、苦手そうな単元に絞ってある。新しい範囲はほとんどなくて、一人で復習する用のものだ。
「先輩、いつの間にこれを作ったんですか?」
「んー。お盆休み、親戚のおじさんに絡まれるの面倒くさかったから、部屋に引きこもってたんだよね。そんとき暇だったから、やってみた」
酒のダル絡みはとてつもなく面倒なのだ。
うっかり今の生活について口を滑らせたら、「おっ、お盛んだねえ。真広の嫁はどんな子になるんだろうねえ、うっへっへ」みたいな展開になりかねない。
そういったことを避けるため、もはや染みついた習性でもある引きこもりを発動。実家に帰っても変わらぬ戸村クオリティ。
「大変でしたよね。……その、ありがとうございます」
「いやいや、いい暇つぶしだったよ。ゲーム機も持って帰ってなかったら、暇で暇でさ」
七瀬さんはじーっと見つめてきて、それから小さく吹き出した。
「先輩、さっきゲームはスマホでもできるって言ってましたよね」
「それは……まあ、ね」
バレちまったからには、頬をかいて苦笑いするしかない。
男のツンデレは流行らないからね。
俺の窮地を察してか、すぐ近くで荷物のチェックをしていた宮野が入ってきた。
「トム先輩、僕への宿題的なものはないのだろうか」
「俺より頭のいいやつに教えることはない」
「またまた。全人類の最先端を行くあなたより頭がいい人など、この長い人類史でも片手に数えられるほどしかいないだろうに」
「しばらく会わなかった反動で、俺への過大評価がすごいことになってんな」
口に出すことで発散されるタイプの過大評価であることが判明。冷静に分析してみたけど、意味は一ミリもわからない。怖すぎ。
「ときにトム先輩。ボクもそろそろ、そちらの家に挨拶へ行ったほうがいいと思うのだが」
「なんでだよ」
ガタッと音がして、七瀬さんが慌ててタブレットを拾い上げる。
「怪我はない?」
「あ、はい。すみません」
「いや、全然いいよ。階段から落としても壊れないから、それ」
七瀬さんとタブレットが無事なことを確認して、宮野に向き直る。
「ご両親に挨拶を」
「いや、だからなんでだよ」
「いい時期だと思うのだ」
「なに? 俺って宮野と婚姻届出す手前とかだっけ」
「ふっ、トム先輩。続きは署で聞こうか」
「そっちが振ってきたのに乗っただけだろ!?」
なんで流れるようにポリスメンに突き出そうとしてんだよ。今の発言が聞かれてたら俺が負け――いや負けないな。全然通報してもらって大丈夫ですが。
「単純に、トム先輩のご両親がどんな人か気になるのだ」
「え、戸村くんのお母さんたち?」
リビングに入ってきた古河が、軽快なステップで近づいてくる。荷物は玄関に置いてきたのだろう。両手は空いていて、目はキラキラ輝いている。
古河は近くに来るとしゃがんで、視線の高さを同じにした。
七瀬さん、宮野、古河、壁の並びでぐるっと俺を囲む布陣が出来上がる。攻められやすく逃げ場のない、逆鎌倉幕府が完成だ。
「俺の家族なんて大して面白くもないぞ」
「それは戸村くんの感想だよね」
「もしかして俺、論破された……?」
古河のふわっとボイスからの、やけに得意げな表情。遅れて気がつく、ふるゆきによって論破されたという事実。
「先輩のご家族ですか……そうですね。私はちゃんとお礼をしないといけない気がします……真剣に」
「いや、勉強は俺が勝手にやってることだし。そんな重く考えないでいいから」
なんかこのまま押されたら、ここにいる全員紹介することになってしまいそうだ。
そしたらどうなる? 社会的に終わる。
なのでこの場は、どうにか終わらせることにした。
おもむろに立ち上がって、
「マヤさん遅いなぁ」
と言う。わざとらしいけど、遅いのは事実だ。
リビングでの集合時刻はもう過ぎている。余裕を持って日程を組んでいるとはいえ、少し心配だ。
「ちょっと見てくるから、荷物外に出しといて」
「「「はーい」」」
二階に登ってドアを叩く。
「マヤさん、そろそろ出発の時間です」
部屋の中からガタガタとなにかが崩れる音がした。
「すぐ行くわ」
「大丈夫なんですか?」
「いつものことよ」
マジか。
泰然自若としたマヤさんの声に、じゃあ大丈夫だなと思わされてしまう。でも冷静になると、今の音、完全に準備ができてない感じなんだよな。
少し悩んだけど、大丈夫と言うなら大丈夫だろうと自分に言い聞かせ、玄関から出る。
車の鍵は起きたときに預かっていたので、荷物の積み込みをしてしまう。
四人分が入ったところで、階段を降りる音。ドアが開くと、めちゃくちゃ重そうな荷物を持ったマヤさんがいる。
「さあ、行くわよ」
「重そうですね。持ちましょうか」
「夢と希望が詰まってるのよ。ありがとう、任せるわ」
紳士的に手を出して、キャリーバッグを受け取る。
何キロだこれ……っ!
ずっしり左肩にきて、とりあえず腕はもげたよね。
「今日も暑くなりそうね」
マヤさんはまだ低い位置にある太陽を見て、憂鬱そうに呟く。顔には疲労が滲んでいた。
おそらく、彼女が今日のために最も大変な準備をしてきた。お盆明けに連休をもぎとるのが難しいことは、想像に難くない。
というわけで、最初のドライバーは俺。沖縄についても、基本的には俺が中心になって運転することになっている。
マヤさんの荷物も詰めて、トランクを閉める。
「じゃあ、確認しようか」
全員で丸くなって、家を空ける前の最終チェック。
「部屋の電気は消した?」
「「「「はい」」」」
「水道は出しっぱなしじゃない?」
「お風呂場、洗面所、大丈夫でした」
「窓は開いてなかった?」
「うむ。すべて施錠済みだ」
「火は消した?」
「は~い」
「よし、じゃあ玄関を閉めたら完璧だ」
鍵を刺して、ぐるっと回す。ガチャッと手応えがあって、ドアが閉まる。
新品の黒い帽子を被り直して、そうしたらつい笑みがこぼれてしまう。そしてそれは、俺以外も同じだった。
「さあみんな、思いっきり楽しむわよ」
最高の旅にしよう。
そう胸に誓って、穂村荘にしばしの別れを告げる。
「いってきます」
沖縄編・開幕




