9話 憧れと現実
七瀬柚子にとって、家とはただの箱だった。
両親が共働きで遅くまで働いており、幼少期は祖父母の家で育った。祖父母が亡くなってからは実家にいたが、両親と過ごした記憶はほとんどない。
学校に行って、帰ってきて、ご飯を食べて、頑張って0時まで起きて――玄関で廊下の音を聞いて、今日も帰ってこなかったと眠る。朝起きるとキッチンに置き手紙とその日の食事代が置いてある。
いってらっしゃいは、たまに言う。
物音でベッドから飛び起きて、出勤する背中を見送るのだ。だけど朝の四時だったりで、たまにしか起きられない。
それでも、それが普通だと思っている間は大丈夫だった。
――ネグレクトって言うらしいよ。
柚子のことを心配した友達が、善意でそう伝えてきたときだ。
少女の心の中で、なにかが崩れたのは。
――そんなわけないじゃん。
――ううん。そうなんだよ。ゆずがされてるのは、虐待と同じで……。
――うるさい! 違うもん!
必死になって否定したのは、受け容れたくなかったからだ。受け容れたくなかったのは、事実だったからだ。
心配してきた友人に対し、柚子は怒った。手を振り払って、声の限りの罵倒を浴びせた。
その日から、彼女は教室で孤立するようになった。
――あの子、虐待されてるらしいよ。
――へえ。かわいそー。
――でもこの間もなんかキレてたし、しょうがないんじゃね?
あの木の椅子に座り、木の机に教科書を載せていると頭痛がするようになった。吐き気もする。黒板を見ようとすると、クラスメイトの背中が目に入って心臓が早鐘を打つ。
そうやって次第に、彼女の足は学校から遠のいた。
不登校を見かねた両親は、柚子を穂村荘へと預けた。
誰かと一緒に暮らしていれば解決するだろうと、そう思ったらしい。実際、彼らは解決したと思っているだろう。
摩耶に迷惑をかけたくなくて、柚子はずっと、学校に通っているフリをしているのだから。
月曜から日曜まで、ずっと。
祝日も休校日も、部活だと嘘をついて。
両親から与えられる十分なお小遣いを使って、ファストフード店、喫茶店、図書館、川辺……思いつく限りの場所で、時間を潰し続けた。
そんな生活を、去年の十一月から続けている。もうすぐ半年だ。
その日、柚子は図書館にいた。この生活で本を読むのが好きになった。ほかにやることがないから、というのが一番の理由ではあるけれど。
どうせ教科書を読んでも理解できない。
自分で勉強しようとして、何度も心は折られた。
こんなことをして、なんになる?
高校生になるような未来も見えない。学んでも、この先にはなにもないのだ。
外に出ようとすると、雨が降っていた。傘を持っていないことに気がついて、足が止まる。
雨は嫌いだ。憂鬱な気分になる。
傘の集団が、いつもより鮮明に柚子の孤立を表すから。傘の下で交わされる会話に、どうしようもなく憧れてしまうから。
ため息をついて、外に出る。濡れるのは構わない。
――ゆずが風邪を引いたって、誰も気にしない。
自分に言い聞かせると、乾いた笑いが零れた。ほんとうにその通りだ。
一歩出ると、肩へ叩きつける水滴。
涙の流し方は忘れてしまった。乾いた心を抉るように、三月の雨は降り注ぐ。
◇
「ぐうわああぁぁ。赤味噌切れてたああぁぁ」
キッチンで古河が断末魔を上げ、苦しそうに喉を押さえる。ついでにちらっ、ちらっ、と俺のほうを見てくる。ずいぶんな熱視線だ。きゅんきゅんしちゃうぜ。
外は雨。それを確認して、視線を向ける。
「買ってこようか?」
「え、いいの!?」
ぱぁっと満面の笑みになる。元の顔が可愛いだけに、これがなかなかムカつく。ムカつくが、料理を作ってもらっている側なので文句は言えまい。これくらいの労働なら安いもんだ。
「いいよ。どうせ散歩しようと思ってたし」
「散歩? 雨なのに?」
「雨だから」
ソファから腰を上げ、「他に買ってくるものは?」と聞く。
「えっとね、木綿豆腐とワカメと牛乳と、あと安かったら豚肉も買ってきてほしくて――」
「よしわかった。もう一回言ってくれ」
スマホのメモ帳を開いて打ち込んでいく。便利な時代になったものだ。
「気をつけてね。知らない人についていっちゃダメだよ」
「俺をなんだと思ってるんだよ」
「あ、ごめんね。知らない子を連れてきちゃダメだよ」
「俺をなんだと思ってるんだよ……」
ずいぶんな風評被害である。
俺は二次元の小学生を信仰してはいるが、イエスロリータノータッチの精神を持つ紳士でもある。っていうか女子こえーのよ。三次元は怖い。触れるわけない。
「まあいいや。いってくらぁ」
「いってきやぁー」
財布とマイバッグを持ってきて、玄関で靴を履く。
傘を取ろうとして――ん?
三本ある。
今現在、この家にいないのは二人。マヤさんと七瀬さん。ということは、どちらかが忘れていったと考えられるが……。
三本の中に、一回り小さい傘があった。
どれが誰のものかは覚えていないが、容易に想像がついてしまう。
「…………」
冬の残り香を洗い流すように、雨は勢いを増していく。




