7話 この手も、言葉すらも届かないから
泣いてしまう女の子が、昔から苦手だった。中学の合唱祭や、高校の卒業式。そういった節目で涙を流されると、どうしたらいいかわからなくなる。
どうにもできないのは、わかっているのだ。
俺は男で、向こうは女子で。気軽に手を伸ばして触れられるものでもなくて。いつも仲良くしている相手でもなければ、言葉すらかけられなくて。仲良くしていたって、気の利いたセリフなんて出てこないだろうし。
ただもどかしくて。
そんなふうに感情をさらけ出すことができる彼女たちが、どこか羨ましくて。
そうだ。羨ましかったんだ。俺にはないものだったから。
泣くことも、支えることもできなかったから。その疎外感が嫌いだった。
その肩に触れて、優しい言葉をかけて、誰かの涙を止められる。そんな人になりたかった。
「ハンカチ、使って」
「……ありがとうございます…………」
「うん。ひとまず座ろうか。麦茶用意するから、ゆっくりして」
でも。
俺は俺だ。できないことは、結局できない。
だから積んだ。一つ一つ、柄にもない丁寧さで。
ソファに戻って、七瀬さんのコップを置いて、座り直す。お互い角に腰掛けているから、向かい合う形ではない。右斜め前に呼吸を整える少女がいる。
落ち着いてきたのを見て、ゆっくり声を発する。
「テスト、悪かった?」
「……はい」
「そっか。よかったら見せてくれる? 嫌だったら、今すぐにとは言わないから」
「大丈夫です……先輩には、見せないと……」
口をきゅっと結んで鞄を開ける。出てくる紙は、端がくしゃりとシワになっていて、慌てて七瀬さんがそれを直す。
言葉は出てこない。
頑張ったんだねとか、悔しかったんだねとか。そんな簡単な慰めで済ませていいほど、七瀬さんの感情は安くない。費やした時間も、努力も知っているから。その記憶が、俺の口を重くする。
渡されたものを受け取って、目を通す。
数学43点
その一枚が、彼女にとって致命的だったらしい。後の教科はそれほど低くはないものの、引きずられている感じは否めない。
取れると思っていた点数よりも、低い。
その事実が、受験生である七瀬さんを。人よりスタートの遅れた彼女の心をすり潰す。
遅れがあることを、誰より自覚しているから。
「七瀬さん。シャーペン貸してくれる?」
「え……、はい。どうぞ」
「ありがとう」
ずっと考えている。どうやったら、君の力になれるか。
俺はね、ずっと考えているんだよ。
「こことここは、解けた問題だ。ここの計算ミスは癖になってるから、仕方ない――」
赤だらけの解答用紙に、薄めの黒を加えていく。
マルバツだけの紙の上に、正しい意味を浮かび上がらせる。
「こっちも練習では解けてたけど、制限時間の中でやるには精密さが足りなかったかな。終盤の問題がちゃんと崩しにいけてるから、前半を巻きすぎてケアレスミスが増えたのか」
どの問題が得意で、どの問題が苦手か。どのくらい時間がかかるか。ミスの癖はなにか。
完璧じゃないけど、知っている。
七瀬さんが道に迷ったとき、暗闇を進む手掛かりになるように。君の道は間違っていないよと、伝えてあげるために。
「なんだ……。点数をあげるために、攻めた結果じゃん」
終盤の問題を解かなければ、高得点には結びつかない。そのためには、前半を素早く処理することが必要で。素早い処理には、ミスがつきまとう。
ミスの恐怖と戦った。その痕跡が、至る所に散りばめられていた。
「…………どうして、わかるんですか」
その問いに答えるには、少しの時間が必要だった。
視線をゆっくり動かして、再び七瀬さんへ向ける。
「七瀬さんの気持ちがわかる、なんてことじゃないんだよ。俺はそんなに察しのいいやつじゃないから」
自分のコミュニケーション能力をどれくらい信じてるか。それこそ、笹舟くらいにしか信じていない。
「だから、いつもの小テストとか、解説の手応えとか、そういうことを手掛かりにしてるんだ。テストを受けて、形になったときに見落とさないように」
「…………」
大きな目に、また涙が溜まっていく。
罪悪感で押しつぶされてしまいそうだ。悪いことをしているわけじゃない、と思う。だけど、やっぱり苦手だ。
でも、苦手だけど、逃げちゃだめなこともあるよな。
「君が前に進んでることは、俺が保証する。だから落ち込まないでいいんだ」
「…………学校の先生も、そう言うんです……」
右目から涙をこぼしながら、相変わらず震えた声で。それでも、顔を上げたまま七瀬さんは言う。だから俺は、目を逸らせない。
「私……いろんな人が応援してくれるように……なって、今日も、励ましてくれたりして……わからないんです」
「わからない?」
「なんで先輩も、先生も、私の応援をしてくれるんですか? ……私なんかの、」
「なんかじゃないよ。七瀬さんは、そんな言葉で罵っていい人じゃない」
淡々と否定した。当たり前のことだから。
「俺だって、誰のことでも応援するわけじゃない。君が頑張ってることを知ってるから、力になりたいんだ。他の誰でもない、七瀬さんが俺たちを動かしてるんだよ」
努力することが、俺は嫌いだ。
努力する人が好きだ。その偉大さを知っているから。
「努力は必ず実を結ぶなんて、俺には言えない。だけど、努力には価値がある。人を動かす力がある。それはとても、すごいことなんだよ」
結果だけが才能じゃない。頑張ることだって才能が要る。
俺の役目は、その努力が実を結ぶようにすることなのだ。つまり、悪いのは俺だ。
天井を見上げて、謝りたい気持ちを堪える。「力不足でごめんね」と、頭を下げたかった。でも、今必要なのはそれじゃない。そんな言葉じゃ、七瀬さんは救えない。俺一人の罪悪感は、喉の奥に閉じ込めておけばいい。
ただ、前を。示せ。
「一緒に復習しよう。大丈夫。次はきっと、上手くいくよ」
「…………はいっ!」
正しく努力した人が、正しく報われますように。
俺が少しでも、君の力になれますように。
こうして、七瀬さんの夏休みが始まった。
◇
「戸村くん、期末テストはどうだったや?」
「…………べぇ」
「ん?」
「やっべぇギリギリだったぁぁああ! あぶねえええええ!」
七瀬さんの復習に付き合ってたら、自分の勉強忘れてたって話。
とんでもないスリルと共に、俺たち大学生の夏休みも始まる。




