6話 学生たちと期末テスト
古河は翌日に快復し、ピンチヒッター戸村くんは無事にその役目を終えた。
三限の授業が休講なのをいいことに、昼休みに穂村荘へ戻ってきた俺たち。昨日のお礼に昼ご飯を作ってくれるらしい。丸一日、古河ママの料理を食べなかった俺は「いきます!」と即答してしまった。遠慮という概念がない。
「やっぱりキッチンが一番落ち着くねえ」
「そんなことある?」
「ふふーん」
復活した古河は、いつにも増して上機嫌である。自慢げに鼻歌を歌うが、なんの曲かわからん。俺が知っているのはRPGのゲーム曲だけ。
カラオケではあれだよあれ、タンバリン叩いてる。
「やっ、ほっ、ほいっ」
軽快にフライパンを振る古河。略してフライパンを古河。俺のギャグセンス、もうだめかもしれん。
「にしても、ほんと熟練って感じがするよな」
「好きこそものの上手なれだよ」
「説得力すごい」
なにかに打ち込んだ人間のたどり着いた果て。その一つが、古河のような形なのだろう。俺にはないものだ。素直にすごいと思うし、ほんの少しだけ羨ましく思う。
そんな俺の心を突くように、古河は言った。
「戸村くんも、すごいと思うところがいっぱいあるよ」
「まじ?」
「うん」
「休日の前は深夜までゲームしてるところとか?」
「うーん」
にっこりされたよ。なんかごめんね。この冗談、返しづらいよね。もう二度とやらないから許してください……。
「戸村くんはね。いろんなことができる人だよ」
「いろんなこと?」
「うん。柚ちゃんに勉強を教えられて、悠くんと楽しく遊べて、マヤちゃんと言い合いができて、私の料理を嬉しそうに食べてくれる。それってきっと、すごいことだよ」
「……そうか?」
条件さえ揃えば、誰だって出来そうな気がする。冷静に考えたら、七瀬さん以外とは遊んで飯食ってるだけじゃない?
「そうだよ。……たぶん!」
へにゃっと拳を握る古河。ふにゃっと力が抜ける俺。
堪えきれず、小さな笑いが溢れる。フライパンの音で簡単に消されるくらいの、ほんの小さな。
「まあまあ、そんなことよりチャーハンできたよっ!」
「やったぁあああああ!」
朝食は昨日のうちに買ったパンなので、本当にこれが一日ぶりになる。無理です。このご飯がない生活、俺には考えられません。真広クッキング?んなもん忘れたよ。二度とやらん。
ダイニングに移動して、「いただきます」と言って、スプーンで一口。
パラッとほぐれ、それと同時に広がる香ばしさ。食欲を刺激するが、決して刺激的ではない塩味。なにもかもが調律された、最高の味。
「うますぎる……毎日食べたい」
「戸村くんは毎日食べてるよ」
「ほんとじゃん」
これって実質結婚じゃないですk(以下略)。
食べ終わって休んだら、また大学へ戻らねばならない。面倒なことに、四限の授業はあるのだ。
「ねえ戸村くん」
「なんだ古河」
「もうすぐ夏休みだねえ」
「ああ。もうすぐ夏休みだな」
にっこり笑った古河に、俺も満面の笑みで返す。
「期末試験が始まるねえ」
「…………ああ」
こんにちは絶望。さようなら日常。
「協力しようねっ!」
「もちろんだ。試験は友情・努力・勝利だもんな」
「もう勉強してる?」
「全然やってない」
余裕で否定する俺。大学生の言う「ちっとも勉強してないわ~」はガチでやってない。なんなら五分でもやってれば「人事は尽くした」とか言い出す始末だ。ソースは俺。天罰はだいたい下る。
「ま、ぼちぼち準備しないとな」
いつもなら三日前から追い上げるのだが、今回はそうもいかない。七瀬さんの期末の復習と、俺のテスト準備期間がわりと被っているのだ。
人を自分のだらしなさに巻き込むわけには、いかんのでね。
「なあ古河。この間の授業でさ、よくわかんなかったとこあるんだけど。聞いていいか?」
「おっ。じゃあ私も聞いていい?」
「ふっ。高校受験なら俺に任せろ」
「大学の期末テストだよ」
「……頑張ります」
マジかこいつみたいな目で見てくるじゃん。
◇
一週間が経って、中高生のテスト返却が始まった。
リビングでのんびりしていると、帰ってきたJKが突撃してくる。
「トム先輩! なんと、今回のテストでボクは学年十三位だったぞ!」
「これまでを知らないから感動できないんだが」
「前回は十五位だ!」
「だいぶ微増だな」
もっと劇的な変化があったのかと思うじゃん。トム先輩もどうやってリアクションすればいいかわかんないよ。誰か助けて。
「あー、うん。じゃああれだ。飴ちゃんあげるよ」
「へ? 飴ちゃん?」
こてんと首を傾げる宮野。眼鏡の奥の瞳が、心底不思議そうにしている。
「うん。黒糖飴。ミネラル補給もできるらしいぞ」
「大切にする」
「保管すんな。さっさと舐めろ」
うっかり部屋に放置したら溶けてしまう。包装紙にベッタベタになった飴って、なんか嫌なんだよな。表面が毛羽立ってるというか。しばらくすれば一緒だけど、飴って口に入れた瞬間がクライマックスじゃん(?)。
「しかし宮野って、ちゃんと勉強できるんだな」
「意外であったか?」
「いや別に。ただ、こうやって報告されるのは初めてだから」
「これからは逐一報告する。たとえ小テストであっても」
「やめて」
七瀬さんの情報と混ざったら大変だろうが。俺の脳は仕分けができるほど優秀ではないのだ。
「はっはっは。ボクは本気だぞ」
「怖いっ!」
宮野は快活に笑う。心の底から愉快そうに、ケラケラと。
どこまでが冗談か、わかったもんじゃない。これだから天然は難しい。
「なんでまたお前まで……勉強が不安なのか?」
「不安などないよ。こういうものは、いつだって順調だ」
笑みを崩さないまま、少しトーンを落とす。
「ただ、トム先輩にもう少し、ボクのことを知ってほしいと思ってな」
「……お前はほんと、動機と行動が合致しないよなぁ」
あまりに真面目に言うから、ため息がこぼれてしまう。
「安心しろ。俺は意外と、宮野のことには詳しいんだぞ」
「そうなのか?」
「いろいろあったからな」
「……それもそうか。うん。なんだかそんな感じがしてきたぞ!」
拳を強く握って、満足そうに頷き、その流れで二階へ上がっていく。嵐のような退場に、俺の平穏はぶち壊されたままだ。
ま、もう慣れたけどさ。
コップを傾けて、クーラーの風を浴びる。
「麦茶うま……」
目を閉じて、静かに長く息を吐く。
時計を見る。五時を回っても、七瀬さんは帰ってこない。なにかあったのだろうか。心配だが、迎えに行こうにも中学校の場所を知らない。っていうか迎えに行くという発想がちょっとキモい。自粛してくれ。
心を鎮めて待機。
時計が五時半を回った頃だろうか。玄関のほうから、カギの開く音がした。声はない。黙って靴を脱いで、リビングのドアが開く。
「おかえり――七瀬さん?」
帰ってきた彼女は、口をきゅっと結んで。その結び目は震えていて、目は赤くて、溜まった涙で揺らいでいて。
「せんぱい……わたし、わたし…………」
絞り出すような声も途中で途切れて、立ち尽くす俺のほうに歩いてきて。
堪えきれなくなったのか、目の前で崩れて。声も上げずに泣き出した。
泣いている女の子にかけられる言葉を、俺はもっていなかった。