08 名前の無い、その怪物は
――――朝食を食べ終えた、いや押し付けたとでも言うべきなのだろうが、食べ終えた後、私は外に出ることにした。
もちろんあるのは私の知らない風景、そして灰色に濁る不思議な空。
普通に考えれば不思議でも不自然でも何でもないただの自然だと気づくことは出来るのだろうが、今の私には生憎そんな器用なことは出来そうにない。
「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。」
「たけき者も遂には滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。……無常感をうたった平家物語の冒頭文であっているでしょうか?」
胡散臭い神父は私の横に立つ。近くにいるはずなのに、何故だか温もりのようなものは感じられない。私が人間らしくないのか、それとも彼は実在しない幻なのか。
「あれは人間、つまり源氏と平家のエゴのぶつかり合いですよ。権力に目が眩んで何も見えなくなってしまっている。まあ、それを一種の娯楽として楽しんでいる現代人にも多少問題はあるのでしょうが……」
これも、ある一種のエゴですよ、と彼はその首に付けられたネックレスを指差す。意味のわからない人にとっては冷たい、鉄の塊でしかない。
「そう、ですね……」
平家物語、それはその名の通り平家の栄枯盛衰を綴ったもの。現代人にとってはただの教材であり、世の中の学生はそのストーリーではなく、その文法を読み解こうとする。
古典であっても日本語、つまり言語なのだ。そこから意味を奪ってしまったらそれはもはや言葉ではなくなってしまう。
指先がすぱりと切れ、血が滲んだ。
……そんなこともあったような気がする。
痛かったのだろうか、それとも痒みを感じたのだろうか。それも今では思い出せない。
ただそれが古典の教科書で、私、つまり南条という一人の女子高校生がその授業を真面目に受けていたということだけは読み取れた。
「……古典、か。」
江戸時代、いやそれよりもずっと前、つまり平安貴族の生活。そこには確かに勝者と敗者が存在し、蹴落とされたものは容赦も情けもなく追い出されてしまう。
九州に飛ばされてそこで終わりを迎えた、そして学問の神様として崇められることになった彼もそうなのだろう。
「今の時代と、どっちが世知辛いと思うかい?」
「……私は、今の時代の方が生きにくい、と思う。でも、何でなのかはわからない。」
たった千年では何も変わりっこない。いまだに人間は自分の足で歩かないといけないし、治らない病気だってまだまだ多い。
「ええ、そうでしょうね。止まらない環境汚染、それにあのウイルス。」
「ウイルス?」
聞いたことの無い単語。さすがにその意味は知っているのだが、彼の言葉の指し示すものがわからない。
「まさか、知らなかったりするのでしょうか?」
こくりと頷く。ヴェールのように頭にかかった靄の正体は単なるクエスチョンマークで、彼はそれを明らかにしてくれる、そう信じていた。
「ウイルス、正式名称は誰も知らないそれ。人によっては、神が作ったバグとも呼んでいるそうですが……」
都合のいいときだけ信仰して、都合が悪くなったら簡単に切り捨てる。それこそが人間のエゴなのだ、と。彼はそう言葉を締める。
冷たい人だ、と勝手にも思ってしまう。これは私の偏見で、実際はとても温厚な人なのかもしれないが、人間というものは受け取った情報からしか判断しようとしない。
「……今のところ人間に感染したというデータはありませんが、」
致死率が高すぎるため、そもそもサンプル自体が少ないのだろうとも言った。予防接種で防げるかすらもわからない、本当に未知のそれ。
「興味深いのは、ネコ科の動物に感染したときのパターンでしょうか。それらはたったひとつの例外もなく人間を襲うようになる。」
ライオンではなくネコだったのが救いではあるが、ライオンと違ってネコの方は絶対数が多い。野良猫の殺処分のデータを見ればわかるが、それは優に十万を越えるのだろう。
「その肉球、いえ違いますね。その爪は肉を切り裂き、その牙はすべてのものを喰らう。」
そうして手にいれた糧を元に次の獲物を狩る。その最強で最恐の得物でもって。だから地獄は終わらない、むしろねずみ算的に被害は増えていく一方だそうだ。
ねずみを狩るネコにねずみ算という表現を使うのはどこか不自然で、そして何故だかとても自然で、しっくりと来るように思えた。




