03 one day
うどんにゆで卵と塩昆布が適当に乗せられたものは、男飯というのだろうか。味は、うーん、いたって普通。美味しくもなければ不味くもない。男飯にしてはいい方だと思う。
「卵ってどうやって保存しているんですか?」
「冷凍保存や。二ヶ月はもつで。」
なるほど、頭の中にメモっておこう。ちなみにゆで卵にすると消費期限は短くなるらしい。リゾチームという細胞壁を分解する酵素がどうたらこうたらという話を生物基礎の授業で聞いた気がする。ディフェンシンとセットで覚えさせられたような……。うーん、やっぱり思い出せない。
※ディフェンシン
細胞膜を破壊するやつ。化学的防御ってやつだっけ? 詳細はグーグル先生に後で聞くことにしよう。
「二ヶ月ももつんですか?」
「せやなぁ、加熱処理すればセーフなんとちゃう?」
「結局それアウトじゃないですか……」
私の呟きはエセ太さんには聞こえていないと信じたい。テーブルを挟んで向かい合っている彼は、どこか不安そうに私を見ている。
「南条さん、これからどうするん?」
「私は――――」
言葉につまってしまう。もしこれが夢ならば、間違いなく悪夢の類いだと思う。でも、おそらく夢なんかじゃない。この、なんとも言えないトロッとした卵の舌ざわりも、塩気がまだ残っているうどんも全部本物、絶対に夢なんかじゃない。
「私は、私がやるべきことを見つけたい、です。」
「――――やるべきこと、かぁ。できる限り応援したる。」
ただし、命の保証はできへんけどな。と、口にはしなかったがそう言っているように感じられた。
「まずは、ここ、千葉県から脱出する手段を探してみます。」
「止めはせんが、おすすめはできへんな。」
「だとしても、やってみないとわからないじゃないですか。」
私にしては珍しく、身をのり出してしまう。
「せやなぁ、食べ終わったことやし、とりあえず南条さんには、この街の現状、みてもらおか。」
「ありがとうございます。」
彼は、キッチンとダイニングをつなぐカウンターに置かれた鍵を手に取る。そして、丸い穴が空いているところに人差し指を通し、器用にくるくると回す。
「こんな野郎とタンデムとか南条さんもイヤやろ。でも、仕方ないと思ってくれや。」
しばらく使っていないであろうインターフォンのカメラを起動させる。そこに写っている影はひとつもない。
「ほな、出発や。」
納戸に放り込まれていた古いバイク。中古だと思われるそれは、彼が触れると嬉しそうにエンジンをならす。
左側のレバーを握り、チェンジペダルを操作する。ちょいちょいと後ろの方を指差す彼に従い、エセ太さんの後ろに上品に腰掛ける。もちろんある程度の距離をとって。
アクセスを少しだけひねる。ゆっくりと走り出すバイク、遠ざかっていく安息。時間が流れ、景色も流れる。ヘルメットをかぶっていないからか、長い髪が視界を遮る。だからといって髪型を整えることはできない。だって、バイクは止まろうとしなかったから。
赤信号。
横断歩道を渡る人なんていない。
曲がりくねった道。
何の迷いもなく突き進む。
まるで、獲物を見つけた蛇のように。
旧江戸川と書かれた看板が立っている。何の変哲もない河川敷だったはずだ。そうだったはずなんだ。だが、向こう岸は見えなかった。見えるのは冷たいコンクリートの壁だけ。川はいつものように流れ続ける。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
口から飛び出たのは、あの有名なフレーズ。つまりは、方丈記の冒頭文であった。
「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」
何故かすらすらと言えてしまう。
常に同じものは、この世には存在しない。いや、そんなもの、存在し得ないのである。移り変わりの激しい世界、変わらないことなんてない。生まれるも死ぬも、私には追いかけることはできないのだ。
なぜ、このフレーズが喉をついて出たのかはわからない。ただ、それが一番しっくり来ると思ったのだ。
「それ、なんや?」
「方丈記っていう古典の冒頭文です。」
学校で習いませんでしたかという言葉はぐっと抑え込む。
「ほーじょーき? そんなん聞いたことないわ。これでも中卒からの就職組やからな。」
日本での高校進学率は九十パーセント以上だとどこかで聞いたことがある。というか、威張りながら言っていいことではない。最終学歴が中卒とか、普通に洒落になっていない。ある意味アクセサリーとしての価値はあるかもしれないが。
さっと周りを見回す。いつからか黒い瞳に抉られるような感覚を覚える。河原の至るところから視線を感じる。だが、それは、私が見た瞬間どこかに去ってしまう。なぜだかそれを懐かしいと感じてしまう私が、そこにはいた。
お読み頂きありがとうございます。




