11 LIFE
「……ただいま、帰りました」
もちろんここは私の家ではない。Namelessと名乗った彼の、彼による、だけれども彼のためではない孤児院の入り口。
数人かの孤児が中にいるのだろう。はしゃぎ声がここまで漏れてきている。
記憶の蓋の中にまだ入っていない短期記憶。たった数十分前の会話の内容。それが流れるように表層に現れる。
――――夜。一般人が立ち入ることが出来ない程の闇。彼、彼女らはその中にいたというのか。
「どう、顔を合わせればいいんだろ……」
それを知ったあとで彼女らを直視できるとは到底思えない。正直逃げ出したい。ただ、逃げた先になにもないのは知っている。
つまり、逃げ道などどこにもないのだ。私は、器用じゃあ無いから。後ろに進むなんてことは出来ない。
「お帰りなさい、お姉さん……ゲホッゴホッ」
立ち止まる私を誰かが出迎えてくれる。たった今まで飛び回っていたとしか思えない服の汚れと、それを全て上塗りしてしまうほどにぼろぼろの裾。
風邪を引いているのだろうか。頬が若干紅色に染まってしまっている。
「大丈夫なの?」
「は、はい。外にはもう出られないけど、ここの中の仕事は出来るから。誰にも迷惑はかけないようにしてるから……」
百面相を見ている気分だ。赤くなって、青くなって、そしてまた真っ赤に染まる。種も仕掛けもない、単純な生理現象。それがあまりにも滑稽で、恐怖というものを感じてしまうほどだった。
「私は、あなたを追い出しに来たわけではないから安心して。それに危害を加えるつもりもないから、とりあえず落ち着いて、ね」
触るのは不味いのだろう。病気だとしたら、感染の可能性があるからだ。
「……はい。ごめんなさい」
それは彼女もわかっているらしく、挨拶を済ますと溶けるように部屋に帰ってしまう。照れ屋というわけでもあるまい。病気のことは彼女が一番よく知っているということか。
「こちらこそ、ひき止めてしまって……」
「……お姉さんは謝らなくていいんです。謝る必要がないんです」
過ち、私にはわからない。たとえそれが目に見えるものであっても。いや、たとえ心で視たとしてもこのちっぽけな頭では到底理解することはできまい。
一瞬だけ振り返ったその瞳には、大粒の涙がたまっていた。痛いのだろうか。いやそうではない。苦しいのだろうか。それも違うのだろう。
なら、その感情の正体とは一体なんなのか。欠落のせいで、他人が何を考えているかがわからない。欠け落ちたパーツは今頃何処かの誰かと駆け落ちでもしているのだろう。私にその意味を伝えることもなく。
「生まれたばかりの赤子は、どんな夢を見るの?」
自我が産み出される、その一歩前。全てリセットして、私を私以外の私にしてしまいたい。私が私で無かったのなら、この私のことを私自身が私として認識できるのかもしれない。
――――それは、この私を否定すること。
だからなんだ。ここにいる私には、意味も価値もない。だったら壊してしまっても誰にも咎められないのではないだろうか。
ガラスの殻に包まれた心は、地面に落とせばきっと粉々に砕け散る。それを誰かがかき集めて、捏ねあげて、焼き上げれば全部解決。
その過程でどれだけの人が傷付こうが私には関係の無いことだ。だってその時点で私は私ではない誰かだし、私を私足らしめる要素などどこにも残っていないのだから。
「今は、どうでもいいことか……」
靴を揃え、隅の方にちょこんと置く。真ん中は、やはり落ち着かない。もしここが教室ならば、その席はきっと窓際の後ろから二番目なのだろう。
人によっては特等席と感じ、人によっては外れと切り捨てる陰気で憂鬱な座席。私は、南条という一人の学生は、どんな青春を送ったのだろうか。
「……部屋に、戻らないと」
溶けだしてしまいそうな、エンドルフィンが放出されまくっているこの脳味噌をとりあえず冷凍庫に放り込まなければと動き出す。何がどう満足してこうなったのか。
本能的に私が消えることを望んでいるのか。それとも死と生の狭間にいた私を笑いに来たのか。それならば、存分に笑うがいい。笑って、嗤って、そこから突き落とされればいい。
今度は私がそっち側に行って、貴様を思う存分、気の向くままに壊してやるから。今ここでされたことの全てを三十倍にして返してやるから。
ちなみに三十倍という数字に特に意味はない。今気づいたこととして、素数の最初のいくつかをかけたものだったりするが、そこには触れないでおこう。数学ほどつまらない、答えがハッキリとしているものは無いのだから。
揺らいで、足掻いて、それでも見つからないものを掘りあてるのが私の考える学問というもの。それが、私の考える人生というもの。