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09 未遂

「そういえば、まだ名乗っていなかったですね?」


 重々しく開かれる彼の口。私の中で彼はもう胡散臭い神父と決まっているのだから名前がわからなくても特に困ることなどない。


 別に牧師でもいいのだが、彼の着ている修道服風の衣装のせいでイメージがプロテスタントよりもカトリックになっているのだろう。だが、やっていることはプローテスターリー(抵抗)という矛盾。もちろん完全に偏見でしかないが。


「別に、いいですよ。名乗りたく無いなら名乗らなくても」


「いえいえ、常識として名乗っておくのが正解ということもあるのですよ? 名乗りたくないのは事実ですが……」


 名乗りたくない事情、例えばどんなものがあるだろうか。


「もしかして犯罪、歴?」


「残念ながらハズレです。それくらいわかりやすければ苦労せずに済むのですが……」


 残念というべきか、安心したというべきか。まあ、法も秩序すらもないここでは、犯罪が犯罪としてカウントされないこともあるのであろうが。


「正解は、そうですね……。僕には名乗れる名前がない、といった所でしょうか」


「名前が、ない?」


 私が知っている常識の外側。日の光の当たる世界とはルールが異なるあちら側。


「ええ。名前云々の前に、戸籍自体あるかどうか。現代、いえ、世界というシステムから省かれたただの人形。さながら持ち主不明のロボットといったところでしょうかね」


 普通の人生とはかけ離れた所にある、そして絶対に絡み合うことのない一本道。交差点どころか、そもそも舗装すらもされていない苦難の道。そこを彼は歩んできたというのか。


「Nameless。僕や、僕と同じ境遇にある人は大抵こう呼ばれています。日本語だと名無しの権兵衛だったはず。広義だと、コインロッカーチルドレンも含んだはずですが……」


「じゃあ、あの……」


「孤児院の子ですか? 安心してください。彼らは……あの子達は……ちゃんと表の世界で産まれた子ですよ。ただ、様々な理由で夜に片足を突っ込みかけてはいますが……」


 夜、すなわち色欲と暴力が街を支配する時間。警察が手を出せない真の闇がそこにはあるのだろう。女を売られて、奪われて、ズタズタにされて。それでもなお解放されることはない。そこはまさしく地獄なのだろう。


 私なんかが語れない、語ってはいけない人間の凶暴性。


「ごめん、なさい……」


「いえ、謝る必要は無いでしょう。貴女には知っていて欲しかったのですから。ただ、それを理由にあの子達をフィルター越しに見るということが無ければ」


 悲しそうな表情。表面上のものではなく彼の本質そのもの。歪んだという言葉では到底語りきることはできない。(かた)ることしか出来ないのは一体どっちなのだろうか。


 名前すらも思い出すことが出来ない私、そしてそもそも名前すらもない彼。前提条件と過程は違うものの、何故だか親近感を覚える。私ごときがそんなことを言ってはいけないのは重々承知、それでもそう思ってしまうのだからもう末期なのだろう。


「そこまで深く考えなくてもよろしいのではないでしょうか……」


「いいえ。問いに解が無いというのは、すっきりしないので」


「そうでしたか。では、僕はこれで」


 私しかいない河原。江戸川か旧江戸川かなんてわからないし、知りたくもない。


 対岸にあるのは、昨日と同じようにそびえ立つ壁。それはさながら牢獄のようで、閉じ込められているのは記憶といったところか。


「……なんで、ここにいるんだろ。なんで、私は私なのかな。このまま全部投げ出したら、楽になれるのかな?」


 重すぎる心はきっと水に沈むのだろう。でも、口から出てくる言葉のせいで空に浮かんでしまうに違いない。意味も意図もなにもない、水素よりも軽いであろう言葉の群れ。


 そのせいで私は思考の海に沈むことが出来ない。面白くない、楽しくもない単純で単調なリズムは私には止めることは出来ないし、きっとフグ毒(テトロドトキシン)でも止めることはできまい。


「……誰かが、最後の一歩を踏み出す勇気をくれたりしないかな?」


 誰もくれないのはわかっている。だから声に出した。本当は死にたいのかもしれないし、生きたいのかもしれないし、どっちでもないのかもしれない。


 わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、わからない、変われない。私は、変われないんだ。


「やめたい。泡になって、消えちゃいたいよ……。だって、わからないもん。私は私のことが、全くわからないんだもん」

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