めいっぱいの、ありがとうを
「どうぞ……粗茶ですが」
「あぁ、どうもすみません」
「有難うございます」
サンディがお茶を出すと一組の男女――先程の話を信じるなら、一間の両親はどこか恐縮した様子で頭を軽く下げた。同時に自分の息子が置かれている今の家庭環境を不思議に思っているのか、どこか落ち着きのない様子で視線をさまよわせている。
そんな二人を、一間はどこか現実の事ではないような心持ちで見つめていた。
今までずっと恨んできたし、それでもいつかまた逢える日が来るのではないかと夢見た時もあった。しかし実際にその時が来てみると、どんな顔をしていいか分からない。
「あの……」
と、そこでサンディが戸惑いながらも口を開く。
今この部屋には一間と彼の両親、そしてサンディしかいなかった。
遠藤さんは怖がらせてしまう可能性があるし、澄と菫はさっきまでのことがあるので事情が分かるまでは席を外していた。結果、サンディは家族の代表として同席する形になったのだ。
「一間さんの、ご両親ということですが……」
「はい。あの……失礼ですが、貴女は?」
「わ、わたしは一間さんと一緒に暮らしている者です」
「なるほど。いつの間にか、息子にも大切な人が出来ていたのですね」
「ち、違います! そういう関係では無くて……」
一緒に暮らしている事を別の意味で取った一間の父である宅間に、サンディは慌てて否定する。確かに年頃の男子が女子と一緒に暮らしていたら、同棲と思われても仕方ないが。
「一間さんは、行き場の無くなったわたしたちを拾ってくれたんです」
「私、たち?」
「はい。今この家には、わたしと一間さんを含めて五人で住んでいます」
「『拾った』、というのは?」
「それは」
「サンディ、それは俺から話すよ」
今まで静観を決め込んでいた一間が、ようやく口を開く。これ以上質問攻めされるサンディを放っておくのは、彼の精神衛生上あまり良くないことだった。
「初めまして、四条 一間です」
「ぁ……」
どこまでも落ち着いていて他人行儀な言葉に一間の母親、一恵から小さな悲鳴のような声が漏れた。そして、今度はどこか恥じ入る様子で口を閉じる。顔色はお世辞にも良いとは言えず、どこか悲壮感を漂わせていた。
「す、すいません……」
思わず謝ってしまう一間。彼なりに慎重に切り出したつもりだったが、出会ったばかりでまだ両親との正しい距離感が掴めていなかった。
「い、いえ。私こそごめんなさい。そう言われるという事は覚悟していたのに……」
一恵の方も焦ったように頭を下げ、濡れた目元を自分のハンカチで拭った。
気まずい雰囲気が室内を支配する。
「え、えっと!」
しかし、その沈黙を打ち破ろうと声を上げるサンディ。
「あ、あの。積もる話もあると思いますし、一度よく話し合ってみては!?」
声に勢いはあるものの、何故か彼女の語尾は怪しい感じになっていた。
「サンディ?」
訝しげな視線を一間が向けると、それに気付いたサンディが歩み寄ってきて耳打ちする。
「遠藤さんが、『そうしてみろ』だそうです」
「遠藤が?」
一体何のつもりだろうと思う。ただ、あの遠藤さんが何の考えも無しに発言をするとは一間には思えなかった。きっと何か意図があるはず――そう踏んで、話を進めるしかなかった。
「……分かった。あとサンディ」
「あ、はい。わたしは席を外しますね」
「悪いな」
いえ、とサンディは心配そうな様子でリビングを出て行った。
「ふぅ」
一間は一息つく。こうすることで、何か自分の中で空気が変わる気がしたのだ。
「よし」
そして、改めて現状と対峙する
目の前には自分を捨てた両親がいる。色々と聞きたいことはあったが、まずは一つずつ、パズルのピースを埋めていくように一間は聞きたいことを尋ねていく事にした。
「ずっと、聞きたかった事があったんです」
一字一句、確かめるように言葉を紡ぎだす。
この十数年間、ずっと気になっていた事。
何度も自分に問い、ついぞ答えが出てこなかった謎。
それを聞くことは、かなりの勇気が必要だったろう。かつての一間には無かった勇気。だけどこの数週間『今の家族』と過ごしてきて、いつの間にか彼の心の中に芽生え始めたもの。
――だから、聞くとしたら今しかないのだ。
「俺を捨てたのは、何故ですか?」
口にした。
今までずっと自らの内に溜め込んでいた心の澱を、吐き出した。
そして、宅間はその言葉にハッと息を呑んだ。だが、やがて決意したように息を吐き出す。それは一間によく似た仕草で、図らずとも二人が親子であることを暗示していた。
「そうですね。まずはそこから話さないといけません。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、これだけは信じて欲しい。私たちは、あなたを捨てたくて捨てたわけでは無いという事を。聞いて……いただけますか?」
宅間の言葉に、一間は神妙な面持ちで頷く。
これでようやく自分の気持ちに一区切りつけられる――そう、信じて。
「実は一間さん……貴方が生まれたとき、極めて危険な状況にありました」
「危険な、状況?」
「はい。元々、一恵はあまり体が丈夫な方では無かったのです。医師からも出産はかなり難しいだろうといわれました。でも、せっかく授かった命です。私も一恵も、大切にしたかった」
懐かしむように、ゆっくりと語り始める宅間。
一間もその話を少しも聞き逃すまいと、神経を集中させて耳を傾ける。
「出産は無事に終りました。しかし早産だったこともあって、胎児……つまり一間さんが感染症に罹っていたことが後から分かったのです」
「感染症、ですか?」
「はい。しかも日本では珍しいもので、治療も限られた病院でしか受けられないということでした。恥ずかしい話ですが、私と一恵は駆け落ちをしていたので周囲に頼れる人がほとんどいなかったのです。ですが、迷っている暇はありませんでした」
そう――そうなのだろう。
もし宅間と一恵が迷っていたら、一間は今ここに存在していないのである。
そして、そんな珍しい感染症の治療が安易であるはずがない。駆け落ちをして頼れる者が無かった夫婦に、その治療費を払うことがどれだけ困難だったか?
そんな事は、考えるまでもないだろう。
想像を絶するほど、困難だったはずだ。
例え治療費を払い終えたとしても、それから小さな子供を一から育てられるほどの余裕があるとは到底思えなかった。
「だから、手放さざるを得なかった……?」
「最初に言いましたが、今となっては言い訳にしかなりません。私たちに出来ることは、少しでも自分たちの子供が幸せな生活を送れるように手を尽くすだけでした」
その手というのが、一間の居た児童養護施設だったのだ。
「……あそこの施設は、私の友人が園長をしているのです」
「えっ!?」
一恵の囁くような一言に、一間は思わず自分の耳を疑ってしまった。
園長先生が、一恵さんの友人!?
そんな話は聞いたことが無かった。少なくとも一間が覚えている限りは。
かつて一間が「自分は捨てられたのか?」と尋ねたときも、何か理由があった可能性があるかもしれないとは言われたが、預けられたといった事は言わなかった。
だから余計に、何で教えてくれなかったのかと思わずにはいられなかったのだ。
「ごめんなさい。彼女には、私たちから預けたことは言わないで欲しいと頼んだの」
「頼んだ、んですか?」
「その方が……私たちを恨んでくれていた方が、生き易いと思ったんだ」
「っ!?」
その宅間の言葉で、ようやく一間は理解した。
全ては、自分の為だったのだ。最初から今まで、ずっとずっと。
そして気付けば、一間の瞳から涙が溢れ出していた。
両親が今まで自分のことを考えていてくれた事が嬉しかったのか、何も知らずにずっと恨んでいた自分を恥じ入ったのか、その理由は彼自身にもよく分からなかった。
それでも、一間は込み上げる感情を抑えきれなかったのだ。
「うっ、くっ……」
ただ一つ、自分はもう両親を憎んでいないという事だけは理解できたのだ。
「いきなり訪ねてきて、こんな事を言うのはどうかとも思います。それでも……」
そして宅間と一恵も、ある一つの覚悟を持ってここに来ていた。人によっては傲慢と取られるかもしれない願い。それでも、望んでしまうのだ。
「もう一度、私たちと一緒に暮らしてはくれませんか?」
やはり、親だから。許されるならばもう一度、家族全員で一緒に暮らしたい。
そして、その願いに一間は――。
※
「帰ったのかね?」
「ああ」
両親を見送って一間が玄関に立っていると、背後から今まで姿を見せなかった遠藤さんの声がかかった。出会った当時は驚きもしたが、今ではもう慣れたものだ。
「それで、一間はどうするんじゃ?」
「……分からない」
「分からない、とな?」
一間が出した答えは――保留だった。
家族というものに憧れがあった。
自分を捨てた宅間と一恵にも、もう憎しみの感情は抱いていない。
だが、どうしてか一緒に暮らす姿が想像できなかったのだ。
それよりも今の家族とこうして普通に暮らしている事が、一間にとってはしっくりきた。
「何で、なんだろうな?」
「何がかね?」
「いや、何でもない」
訝しむ遠藤さんに、一間は誤魔化すように取り繕う。
思っていることを素直に打ち明けるには、何か恥ずかしいし、悔しい気がしたのだ。
「ふむ、まあいい。ワシが言えるのは一つ。せっかく両親が迎えに来てくれたのだ。見たところ本当に一間のことを想っておる。その気持ちを汲んでやっても悪くはあるまい?」
「……まあな」
「一応言っておくと、ワシはおぬしを追い出そうとしている訳ではないぞ?」
「分かってるよ」
「ならいいんじゃが。あと、これはワシの個人的な意見じゃが……」
「ん?」
「ワシは、おぬしが残ってくれた方が嬉しいぞよ」
「そーかよ」
あくまで素っ気なく答える一間。だが、心は言葉に反してほっとしていた。
「ま、ゆっくり考えることじゃ」
言いたい事をいってすっきりしたのか、遠藤さんはそのまま音も無く去って行った。
参ったなと、一間は頭をかく。
どうやら思っていたよりも、ずっと今の生活を大切に思っていたのかもしれないと。
どんな決断をするにしても、どちらかの家族と別れ、どちらかの家族と生活を始めていく。それは今後の人生を左右する、大きな分岐点になるだろう。
俺は、一体どっちの家族を選ぶんだろう?
答えはまだ、闇の中に隠れて顔を見せなかった。
※
それからというもの、宅間と一恵はたびたび一家を訪ねてきた。話によると、二人の住居はサンディの本体である家からそう遠くないところに在るらしい。
「どうも、お邪魔します」
「これ、お土産なんですけど……」
両親はどちらも人当たりが良く、優しい性格をしていた。
そのせいかサンディも澄も、直ぐに二人に打ち解けた。菫はいつもどこか一歩引いた立ち位置を保っていたが、それでも悪くは思っていないことは明らかだった。
遠藤さんは宅間と一恵がいる間は姿を見せず、いつも二人が帰った時にひょっこりと姿を現した。確かに彼の存在を大っぴらにするには少し問題があったのだが、その態度はどこか遠慮しているようにも一間には感じられた。
「おい」
「ん、何かね?」
「変に気をつかってるんじゃないだろうな?」
「まさか。ワシがそんなタマに見えるかね?」
「それは、見えねえけど……」
顔をあわせて会話することがあっても、遠藤さんはどこかはぐらかすような答えを返すだけだった。そんな気まぐれな悪魔の態度に、言葉に出来ないようなモヤモヤとした気持ちがまるで雲のように発生し、一間の心を分厚く覆っていった。
そんな得体の知れない不安を抱える日々の中で、一間はある変化に気付いた。
家の雰囲気が、明るくなっていたのだ。
もちろん、今まで悪かったわけではない。ただ、以前にも増して活気付いたというだけだ。
だが、それを実感するにつれて一間の気分はどんどん沈んでいった。
事実としてそんな事は全くないのだが、どこか自分が早く親元に帰る――つまり、この家から出ていく事を望まれているような気がしてならなかったのだ。
そんなのはただの被害妄想だという事も、一間は理解している。それでも、『自分は要らない人間』。その劣等感が一間を苦しめた。
ここ何週間かの暮らしの中で随分和らげられてはいたものの、数年間ずっと抱き続けてきた負の感情だ、そう簡単に消えてくれるものではなかった。
苦しい、早く楽になりたい。
どうしたら、この苦しみから解放されるのだろう?
そんな考えが徐々に徐々に一間の心を侵食していき――やがて、一つの決断を迫られた。
※
「俺、宅間さんと一恵さんの家に行くことにします」
五月の中旬、家に遠藤さんを除いた一家全員と両親がいる前で、一間はそう告げた。
「ほ、本当かいっ!?」
最初に反応したのは、宅間だった。
座っていた椅子から身を乗り出し、目を大きく開いて一間に尋ね返す。彼としては、まさか息子がこんなに早く決断してくれるとは思っていなかったのだろう。
「はい。宅間さんと一恵さんの気持ちは、十分伝わってきましたし」
「っ、かず、ま……」
はっきりとした息子の返事に、一恵は合わせた手で顔を隠し、涙を流した。そんな彼女の頭を宅間は喜びを分かち合うように抱きしめ、そして優しく撫でる。
だが直ぐに表情を仕切り直すと、真剣な眼差しで宅間は確認するように尋ねる。
「でも、本当に良いのかい? この家の人たちとも、ずいぶん仲が良いようだから……」
「それは……」
「一間さんが決めたことなら、私たちは反対しません」
答えに詰まった一間。だが、それを助けたのは落ち着いたサンディの声だった。どこか寂しさを含んだ笑みを見せながらも、彼女ははっきりとした口調で続ける。
「今まで、ずっとずっと一間さんに頼りっきりでしたからね。そろそろわたしたちも自立しなきゃいけないのかもしれません」
「サンディ……本当に、大丈夫か?」
不安が拭いきれない様子で一間が尋ねるも、サンディはあくまで元気いっぱいに頷いた。
「だいじょーぶです、心配しないでください! お金のことならわたしも働けばなんとかなると思いますし、いざとなったら翠さんにでも助けてもらいますから」
「そっか……」
「はい、そうです!」
それでもやはり、不安は完全には無くならない。
ただでさえ地球に馴染みの無いサンディだ。澄はまだ小さいし、菫さんもこの前は奇策で成仏を免れたが、またいつその危険が訪れるか分からない状況にある。遠藤さんは頼りにはなるが、いつか自分の家族を探しに行きたいと思っているだろう。
次から次へと、一間の頭に心配事が浮かんでは消えていく。
――だけど、それでも。
振り切らないと、振り切っていかないと抱えている心の寒々しさは取れそうに無かった。
きっと逃げているのだろうと、一間は思う。
本当の家族を言い訳にして、苦しいこと、辛いことから逃げようとしているのだと。
だがそれが分かっていながらも、このどうしようもない寒さには勝てる気がしなかったのだ。
「実家はこの近くらしいから、ちょくちょく顔を出すようにするしさ」
やっと捻り出した言葉は、そんな薄っぺらい言葉だった。
そして『実家』という言葉を敢えて使うことで、今の家との決別しようと思った。
「はい。来るときは事前に連絡くださいね? じゃないと、おもてなし用のお菓子も用意出来ませんから。あとあと、暇だったら電話ください。澄ちゃんも話したいよね?」
「うん。すみもおにーちゃんのでんわまってるよ? それでね、おはなしきかせてほしいな。おにーちゃんと、おにーちゃんのおとーさんおかーさんのおはなし」
「……何か困った事があったらなら、いつでも相談してね。一間くん、ちょっと溜め込んじゃうようなところがあるから少し心配だわ」
だけど、そんなこと出来るわけ無かったのだ。
こんなにも優しい言葉をかけてくれる家族たちに対する気持ちを、偽れるわけが無かった。
だからせめて、感じている限りの精一杯の感謝の気持ちを込めて――。
「今まで、お世話になりました」
流れそうになる涙を隠すように、一間は大きく頭を下げてそう言った。