はじめてのおつかい
菫のお願いとは、澄が行くおつかいへの同行だった。
しかし、ただの同行ではない。澄に『ばれないように』同行するのだ。
いわゆる『はじめてのおつかい』。
澄を家から送り出した後、一間は何気ない挙動で家を出て後をつけ始める。
その姿は傍から見ればただの不審者に違いなかった。だが当人はそれに気付いていない。
彼は今、菫に頼まれたミッションを遂行する為だけに動く忠実なる仕事人になっていたのだ。足音を極限まで殺し、時には小川のせせらぎの様に滑らかに、時には荒れ狂う大海原の如く激しく体を動かして年端のいかない少女の背後をキープする。
「?」
と、唐突に澄が振り返る。
それに合わせて、一間も素早く反復横跳びの要領で道端に立つ電柱の影に隠れる。
気付かれたかと一瞬不安に思ったが、そうでもないようだ。
「えっと……」
そのまま澄はキョロキョロと辺りを見回す。たまに手に持っている紙片に目を向けていることから、どうやら道がよく分からないのだと判断する一間。
どうする? 今、出ていくべきなのか?
判断に迫られる。早くしないと、澄が間違った道を進んでしまう可能性が高い。
しかし、澄の成長を促す為にはこのまま出ていくことはできない。そんなジレンマに一間が苦しめられている時、その声は聞こえてきた。
「おやおやー。こんなところで逢うとは、キグウだなー息子よー」
どこかで聞いたような声だった。
というか、あまりに聞き慣れた声だった。
「本当に奇遇を装いたいなら、もっと演技に力をいれろや、コラ」
「あれあれー? 何でか知らないけど、こんな所にグウゼン変装セットがあるぞよ~?」
「……」
もはや言葉も出なかった。
だがきっと澄を心配してついて来たのだろうし、邪険にも出来なかった。
「礼は帰ってから言う。この変装セット借りるぞ」
「ほっほっほ、気にするでない。ワシはただの通りすがりじゃよ」
最後まで『たまたま通りかかった』というスタンスを崩さずに、遠藤さんは音も無く魔法陣の中に消えていった。何はともあれ、一間は素早く変装して澄の助けに向かったのだ。
「どうした、道に迷ったのか?」
メガネにマスク、ニット帽で変装した一間がそう声をかけると、澄はその小さな体をびくっと震わせて反応した。見知らぬ人間に声をかけられた子供の反応としては、普通の反応なのかもしれない。それが人見知りの子なら、尚更だ。
そして声をかけた一間は、自分の失態を痛感していた。自然に声をかけようとしたあまり逆に力が入り、少し強張った声になってしまったのだ。
これは俺も遠藤の事をとやかく言えねーなと自嘲しつつも、いかにして澄の緊張を和らげようかと模索する。しかし意外な事に、次に口を開いたのは澄だった。
「あ、あの……えっと、その、うぅ……」
その言葉はひどく弱々しいものだったが、それでも『あの人見知りの澄』が発した相手と分かりあう為の言葉である事は間違いないのだ。
だから、一間は待つ。澄が次の言葉を発するのを、ただ待ち続けた。
そしてしばらく空白の時間が過ぎ、澄は意を決したように口を開いた。
「あの、その……道が、わからないんです」
「ど、どこへ行きたいんだ?」
逸る気持ちを抑えながらも、一間は上手く言葉のキャッチボールが行えるように慎重に答える。そして澄も相手が親切な人だと思ったのか、立て続けに質問する。
「えっと、このちずのところにある、ざっかやさんです」
「ああ、ここね。それならこっちの道をしばらく歩いて、二つ目の角を右に曲がれば見えてくるよ。右って分かる?」
恐らく菫が持たせたであろう地図で目的地だけ確認して、一間は身振り手振りも交えて説明する。もちろん、澄が方向を理解しているかチェックするのも忘れない。
「えっと……おはしもつほう?」
「そう。良く出来たね」
正しく答えを導き出した澄の頭を一間は撫でた。すると、彼女の顔がふにゃっと緩む。
「……えへへぇ」
嬉しそうな澄の顔を見て、ついつい一間も表情が綻んでしまう。
そして同時に、やっぱりこの子にはまだ菫さんが必要なんだという事を再確認した。
このまま着いて行きたい気持ちもあったが、澄にはもっと笑えるようになって欲しい。それにはやはり人と接する事が必要だと思い、一間はぐっと堪えた。
「もう大丈夫そうかな?」
「うん! ありがとぉ、おにーちゃん」
元気いっぱいに一間に返事して、澄は教えられた道を歩いて行く。
その様子をしばらく一間は見つめていたが、やがて思い出したように再び歩き出した。
※
困難とは、往々にして続けざまに起こることが多い。
一間はこのまま無事に澄がおつかいを済ませてくれる事を願っていたが、やはり事はそうすんなりとは行かなかった。それは本当に、不測の事態と言えることだった。
「うーん、まいったねぇ」
「うっ、うぅ……」
一間が向ける視線の先には、困り果てた雑貨店の店主である中年男性と、今にも泣き出しそうな澄の姿があった。事の発端は、店に着いていざ買い物をしようとした時。
勇気を振り絞り、澄が店主に話しかけたまでは良かった。
しかし買う物が書かれた紙を取り出す為に澄が肩から下げたポシェットを開けるも、中には何も入っていなかったのである。そして、一間は自分の愚かさを呪った。
澄が探している紙は、一間が持っていた。先ほど道案内をした時に預かって、そのまま返し損ねたのである。買い物リストがあるのを、完全に見逃していた。
「え、えっと……えっ、とぉ……うぅ」
澄も必死に書かれていた物を思い出そうとしているようだが、焦りと恐怖の気持ちが心の中を支配していて、肝心の頭は働いてはくれなかった。
一間は腹をくくった。
これは自分の責任だ。澄ちゃんは良く頑張ったし、例えここで俺が出て行っても彼女は何ら恥じる事は無いのだと。だから早く救いの手を差し出してあげるべきなのだと。
そう思い立ち上がろうとした時、一間の肩に誰かの手が触れた。
振り返ると、そこには穏やかな表情のサンディがいた。彼女は首を振り、そして悪戯っぽくウインクをして「しーっ」と人差し指を口に当てて小声で言った。
「ここはわたしに任せて下さい、一間さん」
「サンディ……どうしてここに?」
しかしサンディは答えることなくニッコリと笑い、自らの喉の調子を確かめるように「あーあー」と小さく発声練習。やがて納得がいったのか一つ「うん」と頷くと、叫んだ。
「あーいっけね、忘れてたわー! カーチャンに急にお客様が来るから食器が足りないって、小皿とコップ六組買ってきてって言われたの、忘れてたわー!」
遠藤さんと同じく、あまりにも白々しい台詞だった。
しかし声の調子が普段のサンディとは全然違っていて、まるで本当に母親から買い物を頼まれた少年のような声だったので、澄にも分かるはずもなかったのである。
何処かから聞こえてきた声を聞いて買うものを思い出したのか、澄の表情がぱっと明るくなった。そして、たどたどしいながらも一生懸命な様子で声を出して、店主に自分の欲しい物を伝えていく。
「えっと、おさら6まいと、コップを6こ……ください」
「はいはい、ちょっと待ってね。色はどんなのがいいかな?」
「お、おまかせしまぅ……」
「おまかせかぁ……おやっ? あぁ、じゃあ適当に選んでおくね」
デザインを選ぶのは澄にとっても予想外だったが、口からとっさに出た言葉が功を奏した。ちなみに店主はおまかせに少し戸惑ったのだが、澄の後ろで一間とサンディが必死にジェスチャーで「それでお願い!」と伝えようとしているのに気付いたのだ。
そうして無事に買い物を終えた澄は、店主と少しおしゃべりした後に店を出て行った。
それを棚の影から見守っていた一間とサンディも、ほっと胸を撫で下ろす。
「さあさあ、一間さん。最後のお役目ですよ?」
「え?」
「多分、あの荷物は澄ちゃんには少し重いですよ。もう買い物も終わったことですし、そろそろ手伝ってあげてもいいんじゃないですか?」
サンディに言われて、一間はハッと気付く。もう目的自体は果たせたのだ。
「そうか……ははっ、そっか」
「そうですよぅ。ほらほら、一間さん急いで!」
「お、おう!」
追い出されるようにして一間も店を出る。
そういえばサンディは一緒に来ないのだろうかと一間が振り返ると、そこにはもう彼女の姿はなかった。遠藤さんもそうだが、サンディもたいがい神出鬼没だった。
きっと今まで出番のなかった自分に最後の役割を譲ってくれたのだと解釈して、一間は急いで澄の後を追って夕暮れの街を走り始めたのだった。
※
「「ただいまー」」
一間と澄が声を揃えて帰宅すると、玄関では遠藤さん、菫さん、サンディがこちらも勢揃いで二人の帰宅を出迎えた。
「ふぉっふぉっふぉ。道に迷わなかったかね、娘よ?」
「ちゃんと頼まれていたモノ買えましたかー?」
そして本日通算三回目の白々しい台詞。
「うん! とちゅう、すごく、こまったけど……いろんなひとがたすけてくれたから、ちゃんとさいごまで、できたよぉ」
だが、そんな二人の困った質問にも澄はいつもの暗さを全く見せることなく、むしろ弾けんばかりの輝かしい笑顔でそう答えた。
「うわっ、まぶしい!? わたしたちにはまぶしすぎますよ、遠藤さん!」
「ワシは目が無いから眩しさは感じぬが、汚れきった心が浄化されていくようじゃ……」
微妙に後ろめたい二人は、澄の神々しさにあてられて悶えていた。
そして一間は「何やってんだこいつら……」と呆れ顔。
「……二人とも、疲れたでしょう? 明日も早いと思うし、今のうちにお風呂に入っちゃったらどうかしら?」
と、そこに今までみんなの様子を伺っていた菫が遠慮がちに提案してきた。
「澄ちゃん、どうする?」
「……うん、すみ、はいる」
一間が尋ねると、澄もそう答えて彼の足に抱きついた。
「……それじゃあ、着替えは二人が入っている間に用意しておくわ」
「分かりました。澄ちゃん、行こっか?」
「うん」
小さい子供をお風呂にいれるなんて初めてのことだけど、大丈夫だろうか?
漠然とした不安が少しあったが、それでも一間にとって澄は妹のようなものであって、そんな彼女をお風呂に入れるのは普通のことだと思うようにした。
※
現在、一家のお風呂は中々に豪華になっていた。
温泉が出たときは結構みんなで騒いではいたが、誰かがふと呟いたのだ。
「で、この後どうするの?」
その問いに、誰もが首を捻ったのである。
翌日に一家を訪ねてきた翠を緊急確保。
それから数時間にわたり温泉がどれだけ地域の活性化につながるか懇々と説明し、今後は一般に向けて解放するにという形で同意を取り付け、とり急いで庭の温泉をどうにかする工事に着工してもらったのだ。
もちろん費用は市の方で。それが未だに翠の愚痴と仕事とストレスを増やし続けているが、今は温泉の話だ。
「澄ちゃん、かゆいところはない?」
「ぅ……うん、だいじょーぶです」
シャンプーハットをかぶり、泡が目に入らないようにじっと目をつむって堪えている澄。その澄を膝の上に乗せて、一間は彼女のしなやかで長い髪を丁寧に丁寧に洗っていく。
「今日は大変だった?」
「……すこし、たいへんだった……かも」
一間がやっぱり気になっていたことを尋ねると、澄はおずおずと口を開いた。
「いろんなひとたちが、たすけてくれたの。でも、あのひとたちがいなかったら、きっとうまくできなかった。だから……」
だから――その先に続く言葉を考える。
きっとまだ自分がやり遂げたっていう実感がないんだろうな、と一間は思う。
確かに澄は人の手を借りて目的を達成した。だけど、それはいけないことだろうか?
――いいんだと思う。
例えば自分が澄の髪を洗っているのも、彼女がそうして欲しいと思い、自分もそうしたいと思ったからだ。遠藤やサンディが手助けしたのだって、澄が助けて欲しいと思って、二人もそうしたいと思ったからだ。そうやってお互いに寄りかかり合いながら生きているのが、今の俺たちなんじゃないのだろうか?
そうやって、気安く寄り掛からせてくれるのが、家族じゃないのだろうか?
一間にはまだ分からなかった。でも、実感はあった。
それは、間違いなく今の暮らしが与えてくれた物なんだと、そう思った。
「おにーちゃん?」
黙り込んでしまった一間を心配したのか、いつの間にか澄が振り返っていた。その姿は幼く、一人で生きてゆけというには余りに難しい存在だった。
だから言う。一間は、かつて自分が手に入れ損なった物を、与えるために。
「別に、一人だけの力じゃなくたっていいんだよ」
再び手を動かし、一本一本はとても細い澄の髪を束ねて房を作る。
「本当に一人で生きていくのは、とても難しいと事だと思う。だから人は集まって、家族になるんじゃないかな?」
「かぞく、に?」
「そう、家族に。だってさ、一人でいたら……『寒い』しな」
一間はシャワーのコックを捻ってお湯を出す。それがちょうど良い温度になったのを確認すると、泡の付いた澄の髪の毛を洗い流していく。
「……あったかい」
そう、あったかいものなのだ。
それは、受け取ってもいい温もりなのだ。
かつては一間も一人で寒さに耐えていた。だが、それを見かねて温めてくれた人がいた。
彼は思う。もし自分が『寒さ』を知ったことに意味があるなら、それは『温もり』を誰かに与えるためなんじゃないかと。そして、それは恐らく今なのだと。
「澄ちゃんは、もっと甘えていいと思う。もっとわがまま言ってもいいと思う」
「でも、おかーさんは……」
「確かに、菫さんは澄ちゃんに自立して欲しいのかもしれない。でもそれは、澄ちゃんがもっと大きくなってからでいいんじゃないかな。だって今は、みんなもいるしさ」
「そう……かな?」
「きっと、そうだよ」
――もしかしたら菫さんの考えは別にあるのかもしれない。
しかし、今はその答えが澄にとって最も必要な答えなのだと一間は思った。