それは、聖痕
とりあえず、日比谷線に乗ったわ。
ひまつぶしに、失われた叙事詩環のひとつを紹介するわね。
メルポメネーの作ったお話だし、原文はどっかいっちゃったから、韻脚とかやんないわよ。
アタシが覚えてる分を、ざっくりざっくり、お話しするわね。
……
「アルテイア」
かつてアテーナイは、クレータ島との戦争に敗れ、課された重税にあえいでいた。
毎年、少年少女を7人ずつ、クレータ島に送ることになっていたのである。
貢ぎ物は、地下迷宮に住まう半牛半人の化け物、ミーノータウロスの餌食となる運命だった。
すでにおびただしい数の若者が、クレータ島に消え、その中には、アテーナイ王、アイゲウスの息子、テーセウスさえも含まれていた。
アイゲウスのもう一人の息子、アルテウスは、母、アイトラーと共にトロイゼーンに暮らしていたが、父の懇願により、アテーナイ目指して旅に出る。
目的は、ミーノータウロスを殺すこと。
いけにえを装い、クレータ島に潜入したアルテウスは、数々の困難に打ち勝ち、ついにミーノータウロスを屠ることに成功。
さらに、クレータ島の王、ミーノースの美しい娘、アリアドネーの愛を得る。
しかし、クレータ島脱出の際に、アリアドネーを置き去りにし、アテーナイに帰還するものの、父、アイゲウスは死亡。
追い出されるようにアテーナイを発ち、故郷を目指すアルテウスだったが、オリュンポスの神々に疎まれ、多大な年月を放浪に費やさざるを得なくなる。
死んだ兄、テーセウスの助言によって、ピタロス一族に頼り、アルテウスはついに故郷へ帰還する。
しかし、故郷、トロイゼーンは、トロイアの襲撃によって灰燼に帰していたのだった……。
……
えー、今、茅場町駅だって。目的地は、まだまだ遠いわねぇ……。
じゃあ、続きは、次回でね。
よく考えたら、どうして主人公(仮名)ちゃんは、不思議なクッキング能力を、持ってしまったのかしら?
それは、昨日の晩のことなのよ。
主人公(仮名)ちゃんは、鏡の前で、髪の毛の手入れをしていたの。
すると、信じられないものを目にしてしまったのね。
耳の上あたりに、白い地肌が見えていたの。本当なら、髪の毛が生えているはずのところによ。
あれっ? と思って、髪の毛をかき分けて、よくよく見てみると、な、なんと……
指先でつついた程度の、ちいさな、でも、ハゲがあったのよ!!!!
ウソでしょ? ウソだよね?? と心臓をドキドキさせながら、何度も見直した主人公(仮名)ちゃんだったけど、何度見ても、ハゲはハゲ。
消えてなくなりはしなかったわ……。
結局、気が付いたのはお風呂に入った後だったから、その日はなるべくていねいに髪を梳いて、そーっと枕に頭を載せたりしたんだけど、そんなのって、しょせん気休めよね。
それに、主人公(仮名)ちゃんには、このところ悩みがあったのよ。
実は、最近、お金に困っていたの。
いま一人暮らしをしている理由は、ご両親とけんかして、実は、家出したからなのね。
幸い、かなりの貯金があったから(その中には、去年、入学する予定だった予備校の学費もあったわ。ようするに、ちょろまかしちゃったのね!)、しばらくはぶらぶら自由に暮らせると思っていたんだけど……。
やっぱり、主人公(仮名)ちゃんは、どうしようもなく、世間知らずだったわね。
貯金のほとんどが、入居するための費用に消えてしまっちゃいましたとさ。
仕方なく、春先から近所のカフェでアルバイトすることになったんだけど、だらだらしたり、ぼさっとすることが大好きな主人公(仮名)ちゃんにとって、勤労とは、拷問にも等しい苦痛だったのよ。
しかも、せめて好きなお料理を仕事にしたい、と厨房の仕事で応募したはずが、ウェイトレスに回されてしまったのが、さらに、主人公(仮名)ちゃんをがっかりさせたわ。
まあ、調理師免許どころか、お料理の学校にも行ったことがないんだから、しょうがないことでもあるんだけど。
そんな多大なストレスが、主人公(仮名)ちゃんの毛根を痛めてしまったのかしら……?
ぐしぐしと泣きながら、眠りにつく主人公(仮名)ちゃん。
(ふざけんなよ、カミサマさんよぉ……ちくしょう、わたしから、いのちより大事なヒマを奪って、さらに、女のいのちと言われてる、髪までもうばうってか……?
カミだけに。
なんつって、きゃひゃひゃひゃ! とかってなんも面白くねーよ……。
なるたけ、はやめに、返してね)
寝入ってしまったわ……。
どうやら、そろそろ、アタシの出番のようね。
ちょうど、電車の中で、ヒマだったのよ~。今ようやく、築地駅って、なかなか目的地までつかないわねえ。
それに、地下鉄って本当にタイクツだわ。外がほとんど真っ暗だもの。
いい暇つぶしになるわ……。
さあ、主人公(仮名)ちゃん。
あなたにちょっとだけ、不思議な力を、貸してあげる。
アタシは主人公(仮名)ちゃんの、ちっちゃなハゲにそっと祝福をこめて口づけたわ。
でも、主人公(仮名)ちゃんは、眠ったまま。
ほんと、ずぶとい子ねえ。
うふふふふ。
さあ、事態は波乱の展開に……ってほどでもないわね。でも、ちょっとだけ次回が楽しみになってんじゃないかしら? ところで、次回の主人公(仮名)ちゃんは、どーなっちゃうのかしらね……?