第八話 訪問
宗孝視点
「おはよう。」
「…また来たのか。」
木々の間から挨拶をした私に驚くこともなく、アヤは呆れたように呟いた。
「『またな』と言っていたはずだが?」
近くにあった木に馬を繋ぎ、再びこちらに背を向けた彼女のそばにいく。
森の中を馬をゆっくりと歩かせながら見つけた彼女は泉の端に腰を下ろし、泉の水を飲む2匹の鹿を眺めていた。
この2匹は彼女の“友だち”らしい。大きい方は『モミジ』、小さい方は『ワカバ』と言うそうだ。…名づけたのは彼女なのだが。
世間で残虐と言われている妖が動物に名前を付け、親しく過ごしているなど誰が想像するだろう。
え……。
鹿って、妖が怖くないのか?
確か、何年か前に妖がどこかの里の家畜を皆殺しにしたと噂で聞いた。妖が現れる直前、馬や鳥や豚などすべての家畜が恐慌をきたし、檻を壊して逃げようと壁に体当たりしていたとか。本能的に妖の気配を察知し、妖から怯えてのことと思っていたが、もしかして単純に妖の放つ殺気のせいだったのだろうか。
人間を警戒するのは動物の本能だ。だから、当然のように動物は妖を避けるのだろうと思っていた。
しかし、そのような自分の常識はこの瞬間に崩壊した。
鹿が妖に近づいている。――――彼女の方はなんだか表情がやわらかい。
小さい方の鹿が妖の手に鼻を押し付けている。――――そして、彼女は「よし、よし」とでも言うかのように、鹿の頭を撫でていた。
彼女が名前らしきものを呼ぶと、大きな鹿も近づいていく。――――鹿って、言葉が分かるのか?誰が名前を付けたんだ?呼ばれて近寄るほど親しいのか?
初めて彼らが戯れているのを見た時、私の中の妖のイメージは大きく変化した。
「今日は何をするんだ?」
辺りはしんと静まりかえり、聞こえるのは泉に流れ落ちる滝の音だけ。
今、周囲を照らすのは、私の持っている松明1本。ゆらゆら揺れる頼りない橙色の灯りによって、この辺り一帯だけ明るかった。
まだ日は登っていない。徐々に空が白み始め、東の山際がほのかに黄色を帯びている程度だ。
だが、それも“いつも”のこと。
彼女がいつもこの時間に鹿たちと泉を訪れることを知ってから、余裕がある時は夜明け頃に会いに来るようになった。
「クヌギの群生地に行って、ドングリを拾う。」
最初の頃は胡乱げに私を眺め、追い払うような態度をとっていた彼女もそのしつこさに呆れた(諦めた?)のか、私がやってきても何も言わなくなり、気が向いた時には返事をしてくれるようになった。
2匹も、ここをたびたび訪れる私を警戒しなくなった。私が松明を手にしているせいか近づいてくることはなかったが、かといって逃げたり威嚇ししたりすることもなかった。松明を消せば、近づくこともできる。その毛並を触ることはまだ許してくれないが、随分うち解けられたように思う。
「拾ってどうするんだ?」
いつものように人1人分空けて彼女の隣に座る。
水飲みに満足したのか、2匹もアヤを挟んだ反対側に身体を横たえた。
「食料集めだ。モミジはドングリが好きらしい。」
そう言って小鹿の背中を撫でる彼女と気持ちよさそうに目を細める鹿の様子に、自然と私の口元が緩んだ。
動物を『友』と呼ぶ妖。
名前を付け、自分の利にならないことを平然と行う。
森に招かれざる者が現れれば、自ら赴き、彼らのためにそれを排除する。
…そう。以前私を狙った刺客を気絶させてくれたのは、森に住む動物たちのためだったのだ。彼らのために、わざわざ気を失わせるという手段をとった。妖である彼女からすれば殺す方が手っ取り早かったにもかかわらず、私に届くはずだった刃を止め、手加減をして刺客を黙らせた。ただ、血の匂いを広げないために。彼女が住む森に厄介事を持ち込んだ我々に手を出さなかったのも、そのあたりの理由からだろう。
彼女は、人を殺すことに歓びを見出す性質ではない。
動物や人間を見下すことなく、友と呼ぶもののために心を砕く。
「じゃあ、少しだけ私も同行しよう。」
「早く帰らないとまずいんじゃないのか?」
明らかに押しかけている私を心配するとは。
本当に、この娘は面白い。
「さっき来たばかりだ。一刻ほど馬を走らせてここに来たのに、これっぽっちの滞在で城に帰るのでは割に合わないだろう。」
ただの興味であったが、無理を通してこの森に通うことにした甲斐があったというものだ。
他国からの刺客を退けてもらってから、しばしば私はあの森に通った。
けれど、始めの頃は全く会えず、そのまま帰るばかり。
当然のごとく、わざわざ妖に会いに行こうとする主に安成らは猛反対した。
「御身の安全を第一にしてください。」
「あの娘が襲ってきたらどうするつもりですか。」
「国主の自覚をお持ちください。」
他の者に内緒で城を抜けようとする私に、様々な苦言を呈してきた。
けれど、私は意見を変えなかった。
2度目に会った時に、自分の勘が正しかったことを確信したからだ。
「馬鹿じゃないのか、お前!」
「怖いもん知らずもいい加減にしろよ!」
「下らないことができねぇように、柱に括りつけてやろうか!?」
不敬ここに極まる。
「わたしはそこら辺のガキか!?」と、半ばいじけるように反論した。それに対する奴らは「ああ。」と即答。
…立場も何もかもを吹っ飛ばしすぎだ。
気心の知れた仲なのでこの程度で罰したりはしないが、最後の脅しはどうかと思う。
主を柱に括りつけ、満足げに頷く側近。むしろ実行してみろ。変な趣味でもあるのかと疑われる場面だ。主に対する不敬で処罰されることは必至。仮に主が望んだのだとしても、お咎めなしとはいかないだろう。よほど混乱していたと見える。
それだけ、私の安全を心配してくれたのだろうがな。
それから、あれやこれやと説得し、長時間滞在しないことと3人を護衛に連れて行くことを条件に、何とか森に向かう許可をもぎ取ったのだった。
今も、彼らは私の後ろにいる。
それこそ、3度目に出会った時にはかつてのように私を庇う位置に立っていたが、何度会っても面倒臭そうにこちらを一瞥して放置する娘に徐々に彼らも徐々に態度を軟化させ、今では私の背後で佇むだけになっている。
「そもそも往復にかかる時間を考えれば、こんな時間に森に来なくてもいいだろうに。」
ため息まじりに典秀がつぶやく。視線も何だか呆れ気味だ。いや、実際に呆れているのだろうが。
「息抜きだ。仕事はきちんとこなしているのだから問題ないだろう。」
「いや、それにしたってな…。」
ほんのわずかな時間のために朝の貴重な時間を潰す主に言葉が見つからないのだろう。忠光は頭が痛いというように目を瞑り、眉間にしわを寄せていた。安成も似たり寄ったりだ。
「従者も大変なのだな。」
振り向くと、アヤが同情するような目を向けていた。
徐々に気を許し始めてくれているのは嬉しい。しかし、私を非難するかたちで打ち解けられるのはなんとなく納得がいかなかず、少し拗ねてやろうかと思ってしまった。
刺客に襲われてから、ふた月ほどたった頃の話です。
諦めずに森に通ったことで、なんとか相手をしてもらえるくらいになった城主様。
危機管理能力の欠如をアヤに疑われていたりします。