鴉、西風に踊る
本作は原作書籍六巻の内容のネタバレを含みます。ご注意ください。
――弧が踊る。
弓のように引き絞られた三日月のように。
一つ。一つ。一つ。途切れず、緩まず、流れて踊る。
この翼を堕とさんと、蒼の風が踊る。
少年の姿をとる風の名は、ソウジロウ=セタ。
ギルド〈西風の旅団〉の長にして、対する少女が今代にて仕える主だ。
――孤が舞う。
風に向かい、海にも空にも染まぬ鴉のように。
一つ。一つ。一つ。斬り捨て、歪ませ、隔てて舞う。
襲う風を孕んで飛ばんと、鋼の翼が舞う。
少女の姿をとる翼の銘は、孤鴉丸。
彼女が永遠を手にしたときに刻まれた、刀としての名だ。
風と、鴉は、剣舞を踊っている。
これは、夢だ。二人はそれを理解している。
刀の化身である少女は、主の呼びかけがあったときのみ、化生としての肉体でかりそめに顕現することしか許されない。
実体なき映し身を示すことはできても、このように自在に彼と切り結ぶことなどできない存在なのだ。
だから、この剣戟は夢幻。
だが、夢であることで、この瞬間の価値がどれほど落ちようか。
こうして刃を交え、斬り合い、切られ逢うことに、夢幻もなにもありはしない。
だから、この剣戟は無限。
少女はもう存在しないはずの肺腑を空想し、そこから吐息を生んで調息する。
興奮と幸福で狭まっていた視界が広がる。
この空間は、ソウジロウ=セタと、神刀・孤鴉丸の心象世界の境界だ。
契約により魂が結ばれた両者の、精神の接着点。
無数に建てられた鳥居は、かつての少女の心象の象徴である。
神に捧げられ、幾度の境界を越えて、人の側から斬り捨てられた神贄竈喰。
神を殺すために神にされた使い捨ての命。
その身はいつしか孤り、刀の社で刃となった。血潮を啜る心は鴉。故に刻まれたる銘は〈神刀・孤鴉丸〉。
なれば、それ以外の情景は、もう一人の世界の担い手、ソウジロウ=セタの象徴である。
空には三日月。言い訳をするように微笑む口元に似て、細く伸びる、太陽の輝きを照り返すもの。
地に刺さるは無限の鏡の破片。期待を。恐怖を。憧憬を。全てを照り返す、皹だらけの鏡。
少女はその意味する主の内面を想像しかけ、益体もない連想は剣に阻まれた。
――余所見は嫌ですよ。貴重な戦技訓練なんだから。
振るわれる刃が意志を伝える。
この空間に、言葉は不要である。魂の欠片が触れ合うたび、表層の思考は容易く行き来する。
――わかっておる。妾も、存分に技を振るう機会を無駄にはせぬよ。
ソウジロウの手には、現し世における少女の媒体、「神刀・孤鴉丸」。
少女の手には、かつて愛用した二振りの小太刀。「裏刀・孤寂」、「表刀・白鴉」。
刃渡り二尺三寸のソウジロウの刀に対し、少女の得物は一尺八寸に、一尺五寸。
背格好による差も含め、刃圏はソウジロウに六寸の利。
端的に言えば、少女は圧倒的に不利と言うべき状況だ。
だが。それがどうしたとばかりに、少女はソウジロウの刀を左の小太刀で受け流す。
膂力で言えば、ソウジロウに分がある。
しかし、軌道の要を見切り、力を加えてやれば流すことはできる。
真正面から受けて止めるのみが防御ではないと嘯くように翼の少女は舞う。
風をときに孕み、抗い、舞うことこそ翼の在り方なのだから、と。
――孤鴉は、すごいなあ。
ソウジロウは少女の右の袈裟斬りの軌道の要を払いながら笑う。
それは、一呼吸前に彼女が為したのと同じ守りの術。
――見た傍から真似を成し遂げて、よく言うものよ。
少年は、一合毎に少女の剣技を吸収し、己の技としているのだ。
初めて彼が夢の中で自分と打ち合えると理解したとき。あれはひどいものだったと、少女は想起する。
〈剣聖〉の名を冠しながら、特定の技を繰り出す合間の動きは素人同然。理合も何もあったものではなかった。
達人の剣を、その形だけ模倣している幼子のような歪つな存在。
それが今はどうだ。
こうして夢での逢瀬を重ねるたびごとに彼はその腕を上げている。
未だ剣技の冴えと練達は古の〈剣聖〉である彼女に分があるが、得物の利、膂力の利等により、勝負は徐々に拮抗しつつある。
――孤鴉が僕の体を操っていたら、アレに勝てたかな。
滑り込むように少女の間合いへ踏み入るソウジロウの体。
応じる少女は踏み込まれた足を払い、抜き打ちの左右連撃を繰り出しかける――が、払った足の感触が軽い。
踏み込みは誘い。
理解するより先に、少女は反射で上半身を逸らす。
その空間を、ソウジロウの刀の軌跡がなぞった。
――無理だな。技量には妾に軍配があがろうが、童には〈天眼通〉があろう。結果にさしたる差はなかったはずよな。
ソウジロウが語るアレとは、先日アキバを襲った、とある殺人鬼だ。
アキバの街でも指折りの剣士であるはずのソウジロウが、多くの手勢と共に挑んで敗れた敵。
守りにかけては比類なき効力を持つ口伝に彼が開眼してから初めて「殺された」相手だった。
――そっか。なら、やっぱり。
口伝とは、この世界の法則の一般的な〈冒険者〉の特技とは異なり、個人が努力によって至る一つの境地だ。
通常、〈冒険者〉の技は外的な要因によって磨かれる。
たとえばその要因とは、特殊な秘伝書の類であったり、試練を越えたことで得られる特殊な契約であったりする。
だが、口伝は違う。それは、悟りと本人の研鑽により生まれるもの。
悩み、鍛え、削り、挑み、手を伸ばし続けた、その先にあるもの。
アキバの街においても、独自の口伝へ至った〈冒険者〉は一部。
ソウジロウは、そんな特殊な〈冒険者〉の一人だった。
――僕が、孤鴉くらい、強くならないとね。
ソウジロウの瞳が、その名に相応しい仄蒼い光を帯びた。
この心象世界において、ソウジロウがその口伝を行使する合図。
ソウジロウの動きが、変容する。
速度が緩慢になったような錯覚。
ともすれば威圧的であった剣気の放出が潜められ、軌跡の一つ一つがなめらかなものとなる。
蒼の風の少年の剣技が、円熟の優雅さを帯びる。
では、その剣の脅威が減じたのか?
答えは否。断じて否だと、少女は刀を握りなおす。
速度が減じたのは、速度に頼らずとも回避されえぬ軌跡を見出したから。
威圧的だった剣気が潜められたのは、外に放たれていた意識が全て瞳へと回されているから。
その動きに優雅さが加わったのは、無駄な挙作が削ぎ落とされたから。
もはや踊るように刀を振るって魅せる少年の一閃一閃は、全てが見た目と裏腹に致死の一撃である。
――童。その目で、そなたは一体何を観ている?
薙がれた胴から二振りの刀を生やし、孤鴉はその刃を受け止める。
軋り、と音を立てて、錬鉄の鋼である刃が斬られた。
鉄とて彼女の身の一部。鮮血が飛沫き、周囲に散る。
だが、ソウジロウの刀の勢いはそれにてしばし殺される。その遅れの間に、少女は身を翻して距離を取った。
彼女は腹から練成した己の分身の刃の切れ端を眺め、ソウジロウを見やる。
仄蒼い瞳が、こちらを見つめていた。普段の屈託のない笑顔は消えている。そこには一切の表情がない。
ただ、全てを見通さんとする、睥睨の意志のみが顕現していた。
――さて、なんでしょうね。
口伝〈天眼通〉。
ソウジロウの口伝の本質を、相棒である少女でさえも正確に理解はしていない。
もちろん、連携のため「何ができるか」の概要は仲間に明かされている。
防御のための口伝。空中をわたる軌跡を見るものと、ソウジロウは語っている。
だが、その本質は、別のところにあるのだと、少女は考えていた。
口伝とは、個人が研鑽の上、世界の法則を己の固有の認識に手繰り寄せる術であるという。
たとえば、ナズナの口伝、〈天足通〉は、制約を越えて自在に世界を駆けるための術だ。
束縛を嫌う彼女の認識が手繰った力である。
たとえば、紫陽花の口伝、〈化生粧〉は、己が眷属の姿を自由に変容させるための術だ。
己を偽る露悪の彼女の認識の体現と言える。
なればソウジロウの口伝、〈天眼通〉は、いかなる彼の認識によって発露した能力であるのか。
孤鴉丸の振るう刃を、ソウジロウは自在に掻い潜る。
否。擦り抜けるといった方が適切か。風が指の間を通り過ぎるように。
一定の間を以って、ソウジロウは孤鴉丸と対し続ける。
間。それこそ、〈天眼通〉の本質ではないか。
ふと、少女はそんな連想をした。
誰とも容易に友誼を結ぶ側面。
誰とも容易には裡に近寄らせぬ側面。
その両面が意味するところは、この少年が、極めて間に敏いという事実。
言葉を発すに適切な間を認識しているからこそ、人からは慕われ。
特定の他者を一定の間より近くに踏み込ませないからこそ、特定の番を結べず、後宮とも揶揄される集団が構成されてしまう。
そんな彼の認識が、「間を見切る」口伝へと繋がったのではないか、と。
左右の腕を刃に変え、縦横を武刃にて切り払う。
左にて牽制し、右にて必死たる一撃。
しかして、仄青く輝くソウジロウの瞳は、その連撃の間を盗み切る。
返礼とばかりの斬り返し。それを少女は往なす、浅い傷が数を増し、少女の白の水干が紅に染まり、赤の滴が地に染みていく。
――何が見えますか?
問いかけの一閃。
――チカの好きな菓子が見えたよ。どーなつといったか。
身を逸らし、ソウジロウが誘う間違いを避ける。正しい理合を。刀身の分、距離をとるのが、孤鴉丸の利を生むのだから。
――その心は?
間が悪いと見たのだろう。すかさずに地を蹴り、接吻でもしかねない勢いで飛び込んでくる。
間が持たない。突き出した切先は袖を掠めるに留まる。なんて間抜け。なんて間違い。相手の速度を見誤った。
――人の肌に触れるには恐ろしく、人の情より離れるは怖い。
だが、それで間酔うような刃ならば、孤鴉丸は幻想級の名を冠していない。
――かくて人の輪を作り空白の中心にいる、げに哀れな小僧の姿よ。
間に合わせの刀身を肩より生み出す。間狩り也にもこの身は刀。
――孤鴉は、やさしいね。
ソウジロウは肯定も否定もせず、身に突き立てられる刃を意に介することもない。
ただ、間識り合う意識を攪拌するように、少女へと刀を突きたて――。
少年の体が止まる。
「あ……れ?」
彼の両の足を、地から生えた刀身が貫いていた。
足だけではない。手を、腕を、胴体を、無数の刀が刺し貫いている。
その刀が生えた箇所に目をやり、ソウジロウは一つの共通点を見出した。
すなわち全て、孤鴉丸の血の染みた地面であるということ。
彼女は刀の化身。己の肉体から刀身を生み出すことができる。
その力の行使はたとえ、彼女から切り離された肉体の一部……つまり、血の一滴からでも可能であるということだったのだ。
「ひどいなあ、こんな奥の手があるなんて」
「妾は気に食わぬ。切り札の一つを、引っ張り出されたのだからな」
「一つ、かあ。まだあるんですね、切り札」
「無論だ。人を捨てて掴んだ力、早々に越えられては矜持に障る」
「僕も、人を捨てれば強くなれるかな?」
「馬鹿者が」
地に縫いとめられた少年の額を、少女は小突く。
少年の言葉に、冗談の要素はなかった。
おそらくは、「身内を守る」という極めて単純な理屈を守るためならば、この少年は自らの内にあるものを躊躇いなく差し出すだろう。
いつかの少女と同じように。
刀の化身たる少女は祈る。
願わくは、この幼い主が人たらんことを。
自分のように、望まれる幻想を叶え続けて、人外の刃になるような生が、彼には訪れぬよう。
そのために、彼には隣に立つ存在が必要だ。
慈しんで彼の手を引く者ではなく。憧れて彼の背を追いかける者ではなく。
ただ、彼の横に立ち、寄り道に付き合いながら歩くような連れ合いが。
自分は、そんな存在にはなれない。人の番は人であるべきだ。神や刀に、勤まるものではない。
「そなたは、間違うなよ」
「あはは、気をつけます」
少年は、風のように軽く笑った。