人というもの
長編小説を書いていて、疲れたので気分転換に短編を書きました。
勢いで書いた短編です。誤字脱字などないと思いますが、あったらすみません。
僕が初めてオークションをしたのは、21歳の春だった。大学四年生、就職活動にやっきになっている周囲をしり目に、なんだか気持ちが乗らずにネットゲームなどをしてダラダラ過ごしていた日々だった。
落札から始めたんだ。欲しいゲームを狙って、少しでも安く買いたたいていた。そのうち、裕福とは言えない学生だったから(仕送りは10万円、後はバイトで遊ぶ金を稼いでいた)、遊んだゲームを出品することを覚えた。
二〇〇〇円で買ったゲームが、一七〇〇円で売れる。たった三〇〇円でそのゲームが遊べたと思うと、得したようでなんだか嬉しかったことを覚えている。
そのうちに、二〇〇〇円で買ったものが、二三〇〇円で売れた。これにはびっくりした。自分で遊んだゲームが、他の人には自分が考えているより価値があるなんて。そのうちに、自分の遊んだゲームを少しでも高く売るようにいろいろと工夫をした。安く買うにもコツがいるし、高く売るにもコツがいる。それを繰り返しているうちに、世の中の法則というかルールというものを学んでいった。
学んだ一番大きなことは、
「この世の中に絶対的な価値など存在しない」
ということだった。世の中のものは、金額で決定している。その金額は、人によっては二束三文だという人もいれば、一〇〇万出しても欲しい、という人もいるのだ。良い、悪い、という判断基準も実にあやふやだ。簡単に言うと、吉野家で三〇〇円しない牛丼だって、今ある牛丼店が全てなくなり、最後の一件で三〇〇〇円で出したら売れると思う。物の価値ってそんなもんだと思う。
そんな感じで、僕はオークションにはまっていった。僕には天性のカンというものがあるのか、僕が「これは高く売れるだろう」と思ったものが外れたことはなかった。安く買い、高く売る、商売の一番の基本的なこと。それが、僕は人よりうまくできるのだった。やればやるほどお金は貯まっていった。
僕は何も生み出さない。僕は人の欲望をあっちからこっち、そっちからあっちと動かすだけだった。動かすだけで、僕のネットで関わる人は満たされていった。
そのうちに僕はゲームだけでなく、いろいろなものをオークションに出すようになった。ありとあらゆるものをオークションで出し、そのうちに法的に認められないものにまで手が伸びていった。
ホンモノではないものなどからスタートしたが、ホンモノかニセモノかなんかの価値は相対的なものでしかなく、たとえニセモノであっても使っている人間が「ホンモノ」と本気で信じていれば、それは本物だ。確かにそのブランドのものではないかもしれないけど、それはその人にとってホンモノだ。だって、それで満たされているんだから。
そのうちに売ってはいけない薬なども売るようになった。これはやればやるほど「需要と供給」のバランス感覚が研ぎ澄まされる感じがした。その薬で人がどうなるかなんて知ったことじゃない。僕がやっているのは、あくまで欲望の入れ替えだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
そんな中、僕のオークションの中のルールができてきた。それは、
「自分でそのものは使わない」
ということだった。欲望を人から人に受け渡すカロン(死者の国の船頭と言われている)としては、自分の欲望に振り回されてはいけない、と思ったから。僕は、カロンとして死でも快感でも何でも売った。それでその後に、誰がどうなろうと僕の知ったことではなかったのだ。
大学も辞めて、就職もしていない。それでも、10年は余裕で食べていけるだけの資産は作ることができた。でも、僕の生活は変わらない。スペックの高いPCと、座り心地の良い椅子だけが増え、それ以外のものは増えなかった。いや、家の中にはありとあらゆるものはあったが、それは自分のものではなく、人の欲望の現れるのを待っているもの達だった。
この頃から、「もの」の定義があやふやになっていった。例えば臓器、これは人の中にあるうちは人だが、人から出したら、ものとなる。また、性的に使用する人間も扱った。それは人だったが、僕が扱えばそれはもの、だった。僕の部屋に待機する時もあったが、僕が見るにそれは人ではない。生きている目をしていなかった。その横にあるレアなスニーカーと同じ。貫かれるのが、足か性器かの違いだ。
オークションを繰り返せば繰り返すほど、僕の中の自分がなくなってきたように思う。世界の欲望に浸されて、僕自身の欲望なんてとうの昔になくなっている。僕は、ただ生きているだけの人だった。
そうして過ごしている生活の中、こんなニュースが飛び込んできた。
「兼ねてから研究されてきた、人を機械化する方法が完成された」
簡単に言うと、機械はあくまで機械であり、人が関わらなければ生産的なことはできない。そのために、人の意識をPCに埋め込むのだという。脳みそは電気信号の中で動かされているので理論的には不可能ではない、とか難しいことが説明されていた。説明していたのは白衣を着た初老の男性だった。
このニュースを聞いたとき、僕の中の欲望に火がついた。僕は人ではなく、「もの」になりたい。こんな人かものかわからないような状態なのではなく、完全なものになりたい!と思った。
それからというもの、そのニュースの続報を追うのが日課になった。日本の科学者が開発したという。個人的にメールを送ったりもした。
しかし、その後のニュースが放送されることはなかった。裏ルートで情報を仕入れると(この頃には、アングラのネットワークもかなり作られていたのだ)、実用化には人体実験が必要になり、人道的な視点からそれ以上の研究はできなくなっていったのだ。
僕は落胆した。僕は人として生きていかなくてはならなくなったのだ。僕はものとして生きていくはずだったのに、何も考えずに動けるものになるはずだったのに。
そう思うと、僕の中にはもう何もなかった。今、行っているオークションなんかも無駄なことに思えた。そして、家の中にあったものというものを破壊していった。人も混じっていたかもしれないが、そんなことは関係なかった。
ひたすらに破壊しつくした後、僕の部屋には黒い服を着たガタイのいい男たちが現れた。その頃の僕は、日本を裏で操っているような人間の欲望も扱っていたからだ。そうした人間の欲望を踏みにじり、無事でいられるわけはない。もう僕は人である必要がない、死ねばものになれるのだから。
黒服は僕を車に乗せた。車は、僕の住んでいた県から離れ、山奥に入っていく。黒服は無言だった。
車は工場のような白い建物の敷地に入った。完全に私有地にある工場のような建物、どうやら合法ではないことは間違いない。だが、僕に恐怖はなかった。僕はもう人として生きていて、人として生きていなかった。はたから見ると、さぞかしうつろな顔をしていただろう。あの時、僕の部屋にいた人と同じような。
工場の中に連れられ、奥深くに入る。工場の中は殺風景で、何の研究をしているかはわからなかった。地下のある部屋に入ると、白衣の老人と、それを取り囲むように研究員らしき男女が何人かいた。その前には、一目でわかるスーパーコンピューターと呼ばれるPCがあった。
その白衣の老人はどこかで見たような気がする。記憶を辿り、どこで見たのか考える。
「これが、今回の研究で使っていいものかね?」
白衣の老人は見た目以上のしわがれた声を出す。その声を聞いて記憶の扉が開いた。
彼は、あのニュースに出ていた男性だった。ということは、僕はこれから、ものになるということだ。僕の目を涙が伝う。涙を流すなんて何年ぶりのことだろう。
「泣いてもだめだよ。君はこれから、科学の礎となるのだから。誇りを持ってもいい」
わかっていない、僕は笑い出した。これは歓喜の涙だ。僕はこれからものになる、人ではなくものになるのだから。
役に立たない人など、ものでしかない。
…のか?
後日談ですが、彼はPCの中で自分で考えて働くことを求められました。彼にとってはさぞかし苦痛であることでしょう。