驚かせたら消えました!? ~三歳児の初転移と、お姉ちゃんの牛乳飴~
帝国歴三一一年、秋。
花の都ルミナリアを吹き抜ける風は日ごとに冷たさを増し、街路樹の葉を鮮やかな紅や黄金色へと染め上げていた。
石畳の道を抜けた先、四季折々の花々が絶えることのない広大な庭園を抱く屋敷。そこが、ルシアの母・セシリアの実家であるルミナリア・リヴィエール家だ。
高い天井から柔らかな秋の日差しが差し込む玄関ホールに、甲高い、けれど澄んだ声が弾けるように響き渡る。
「ばーば、遊びに来たよー!」
声の主は、五歳になるセレスティア親王家の令嬢、ルシア。 廊下の奥から振り返ったのは、上品な微笑みを湛えたリヴィエール家夫人、エレノアだった。
「あらあら、ルシア。よくいらっしゃい」
エレノアが優しく目を細めると、ルシアは少し誇らしげに胸を張り、両手で抱えていた紙袋を差し出した。中には、つやつやと深い朱色に熟した秋の味覚――柿がいくつも詰まっている。
「これ、お土産! とっても甘くて美味しいの」 「まあ、美味しそうな柿だこと。ありがとう」
お礼を言いながら袋を受け取ったエレノアの視線が、ふとルシアの半歩後ろに控える少女へと移った。 ルシアと同じ五歳ほどの、控えめな雰囲気を纏った少女。聖都クリスタルヘイムからルシアが連れ帰り、今は侍女として仕えているヴィオだ。
「そちらのお嬢さんは……新しいお友達?」
エレノアが問いかけようとした、まさにその瞬間だった。
「ねえ、ココロギは?」
ルシアの無邪気でせっかちな声が、祖母の言葉をあっさりと遮る。待ちきれないとばかりに、その小さな足はすでに庭園へと向いていた。
「今日は天気が良いから、中庭で遊んでいるはずよ。アマンダもそばにいるわ」 「行ってくるね!」 「ええ、行ってらっしゃい。転ばないように気をつけるのよ」
エレノアは困ったように、それでもどこか愛おしそうに微笑むと、元気よく駆け出していく小さな背中と、その後に慌てて小走りでついていくヴィオを見送った。
◇
秋の終わりの午後は、まるで世界全体が琥珀色に溶けているかのようだった。 傾き始めた黄金色の陽光が、高く伸びた木々の隙間からこぼれ落ち、柔らかな木漏れ日となって苔むした地面を斑に彩っている。
三歳の少女、ココロギは、中庭の隅でしゃがみ込み、目の前に落ちていた一枚の紅葉の葉にすっかり心を奪われていた。 ぷっくりとした愛らしい頬を秋の冷気に触れさせて淡い桃色に染めながら、小さな指先をそっと葉脈へと伸ばす。くりくりとした大きな瞳には、この世界のすべてに対する素朴で純粋な驚きと好奇心が、きらきらと満ちていた。
「…………」
小さな吐息が白く滲みそうなほど、穏やかで静かな時間。 けれど、その平穏はほんの少しの悪戯心によって、あまりにも唐突に破られることになる。
「――わっ!」
背後から降ってきた、悪戯好きなルシアの大きな声。 ただそれだけの、幼い子どもたちの間ではありふれた日常の一コマのはずだった。驚かせて笑う、そんな無邪気な挨拶のつもりだったのだ。
けれど、紅葉の世界に没頭していたココロギにとって、その声はあまりにも突然で、大きすぎた。
びくり、と小さな肩が跳ね上がる。 幼子の本能的な恐怖と驚愕が、彼女の中に深く眠っていた未知の力――強力な異能の引き金を、瞬時に引いてしまったのだ。
――ぎゅん、と。
大気が軋むような、奇妙な感覚。 直後、ココロギの周囲の空間が陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。
「……あ?」
驚かそうと両手を広げていたルシアの口から、間の抜けた声が漏れる。 隣で息を呑んだヴィオが、目を見開いて呟いた。
「消えた……?」
ほんの一瞬前まで、そこにしゃがみ込んでいたはずの小さな背中が、跡形もなく消え失せていた。地面には、彼女が触れていた真っ赤な紅葉が、ただ一枚ぽつんと残されているだけ。
「どこっ……!?」
ルシアが慌てて周囲を見回した、その時だった。 少し離れた場所にある、鏡のように静かな池の上空。そこに、ぽつんと浮かぶ小さな影があった。
ココロギが転移したのは、池のど真ん中、水面から数十センチほど離れた虚空だった。 突然視界が切り替わり、足元の感覚を失ったココロギは、大きな瞳をさらに見開いた。何が起きたのか理解できないまま、混乱と底知れない不安に、桜色の小さな唇が微かに震える。
「おかあ、さ……」
助けを求めるように、母親の名を呼びかけた。 けれど、その言葉になりきらないか細い声が空気を揺らした瞬間、彼女の体を支えていた不思議な浮力がふっと途切れた。
重力が、容赦なく幼い体を冷たい水面へと引きずり落とす。
――ドボン!
中庭の静寂を切り裂き、派手な水音が響き渡った。 飛び散った無数の水飛沫が、傾いた太陽の光を反射して、まるで砕け散った宝石のように宙に舞う。
「ココロギ!!」
ルシアが叫び、池の畔へと駆け寄ろうとしたが、あまりにも距離が遠かった。
水の中へ落ちたココロギは、一瞬の浮遊感のあと、凍えるほどに冷たい世界へと身を包み込まれていた。 秋も深まった池の水は容赦なく体温を奪い、視界は深い緑色に滲む。耳元でボコボコと空気が泡立つ音が響き、息ができない苦しさに手足がもがく。
そして、また次の瞬間。
ばしゃり、という水音と共に、空間が再びわずかに揺らいだ。 気づけばココロギは、ずぶ濡れのまま、池の畔――ルシアとヴィオのすぐ側の芝生の上に、ぺたんと座り込んでいた。
「はあっ、はあっ……!」
咄嗟に発動させたルシアの異能が、冷たい水の底から彼女を強引に引き揚げ、地上へと救出したのである。
芝生の上で、ココロギはぽたりと水滴を垂らしながら、数秒間呆然と空を見つめていた。やがて、肺にたっぷりと空気を取り込んだかと思うと、その小さな顔がくしゃりと歪んだ。
「うわあああああんっ!!」
驚愕と恐怖、そして身の芯まで冷え切った不快感のすべてが爆発したかのように、ココロギは喉の奥から精一杯の声を張り上げて号泣した。
「ご、ごめんねココロギ! びっくりさせちゃって、ごめんねっ!」
自分もまた、異能を急激に使ったせいか少し息を切らしながら、ルシアは真っ青な顔でココロギの背中を必死にさする。その隣では、ヴィオが自分の身につけていた上着を慌てて脱ぎ、震える小さな肩へと優しく掛けようとしていた。
ルシアはそれを手で制すると、軽く印を結ぶ。 すると瞬時に、ココロギの濡れた服が乾いた新たなものへと取り替えられた。若干、採寸に失敗して袖が余っているのは御愛嬌だ。
続いて、同じく念により取り出した柔らかな綿布で、ココロギの髪と顔、そして頬を伝う涙を優しく拭いてやる。 ようやくココロギは泣き止んだものの、大きな瞳には大粒の涙が今にも溢れそうに揺れていた。
「ほら、これ食べて元気出して」
ルシアは再び念を使い、紙で包まれた三本の白い棒を取り出した。その一本をココロギの手にそっと握らせる。
「牛乳飴だよ! 食べてごらん」
ルシアは微笑みながら、ココロギに促した。 ヴィオにも一本手渡し、自分の口にも残りの一本を差し込む。内側から押された片側の頬が、ぷっくりと可愛らしく膨らんだ。
口の中に広がるのは、芳香でまろやかな、そして心をほっと溶かすような優しい甘さだった。




