唇をくっつけて何が嬉しいの?
王都に向かう途中、日が暮れた。
街道を外れた林の中に腰を下ろした。ミラが「今日はここで休もう」と言ったからだが、正直に言うと俺は休む必要がない。
「なあ、ミラ。俺って、寝なくていいのか?」
「たぶんね。魔人は怨嗟で動いてるから、人間みたいに睡眠で回復する必要がない。疲れないでしょ?」
「ああ……歩き始めてから一度も眠くなってない」
「でしょ? 食事も同じ。怨嗟が燃料だから、食べなくても死なないよ」
なるほど……考えてみれば、魔人になってからまともに何も食べていない。腹が減った感覚もない。
「じゃあ、俺は何のために口がついてるんだ?」
「喋るためじゃない?」
「それだけか」
「あと、キスとか」
「おい……何の話だ?」
「人間って、キスするでしょ? 口と口をくっつけるやつ。あれ、なんでするの?」
真顔で聞いてくる。こいつは三百年以上生きているくせに、こういうことは分からないらしい。
「それは……ミラも知らないのか」
「知識としては知ってるよ。人間が好きな相手にやる行為でしょ? でも意味が分からないの。唇をくっつけて、何が嬉しいの?」
「俺に聞くな……やったことない」
「あ、そうなんだ。じゃあさ、じゃあさ、いまここで試してみる?」
「た、め、さ、な、い!」
「つまんないの」
ミラが頬を膨らませた。デーモン系の数百年モノが頬を膨らませても可愛くはないぞ。
……もちろん本音じゃない。少し見つめてしまった。
でも流されないように、可愛くない、と思うことにした。
◇
「ねえ、レイド。聞きたいことない? わたしのこと」
「あるけど、お前が答えるかどうかは別だろ」
「聞いてみなよ。答えられることなら答えるからさ」
「じゃあ聞くけど、お前の本当の姿ってどんなだ?」
ミラはうーんと考え込んだ。
「……見せない方がいいと思う」
「怖い系なのか?」
「怖いかどうかはレイド次第だけど……綺麗じゃないよ。人間の美醜で言えば、たぶん醜い方。デーモン系の本体ってそういうものだから」
「別に綺麗じゃなくてもいい。ただ気になっただけだし」
「……いつか見せるかも。でも、今はまだいい。レイドにはこの姿で覚えてほしいから」
覚えてほしい、か。こいつがそういうことを言うのは珍しい。
「じゃあ、もう一つ。お前は俺に会う前、何してたんだ? 三百年間ずっと人間を見てたのか」
「ずっとではないけど、大体そう。人間の社会の近くに居座って、変わっていくのを見てた。王国ができた頃も見てたし、前の王朝が滅びたのも見てた」
「一人で?」
「一人で。デーモン系にも社会はあるけど、わたしは群れるのが得意じゃなくて。上位のデーモンに仕えるのも面倒だし、下位をまとめるのも興味ない。だから一人で、人間の近くにいた」
「……三百年、一人で、か。それってさ――」
「寂しい、とか思っちゃった?」
「……思ってない」
「嘘。顔に出てるよ」
「出てない」
「デーモンには感情が読めるの、知ってた?」
「嘘だろ」
「嘘だよ。でも当たった」
こいつと話していると調子が狂う。嘘と本当の境目が見えない。
「でもね、本当のことを言うと、寂しいって感覚はよく分からないの。人間と違って、デーモンは孤独に耐性があるから。一人が辛いんじゃなくて、一人が普通。だからレイドと歩いてるのが……何て言うんだろ、珍しい状態?」
「珍しい状態……」
「うん、三百年で初めてかも、誰かとずっと一緒にいるの」
ミラは屈託のない笑顔を見せた。
……また視線が引かれてしまった。俺は咄嗟に視線を外して、次殺す相手のことでも考え出した。
◇
ミラが俺の正面に座り直して、腕を取った。
「ねえ、レイド。ちょっとじっとしてて」
「何だ急に?」
「刻印の配置が気になる。さっきの怨嗟吸収で変わったところを、もう少しちゃんと読みたいの」
刻印の上をなぞるように、ミラは目で腕の文字を追っていく。
「……このリーベル村の名前、フェルン村の名前と混ざり始めてる。怨嗟が融合してるのかも」
「融合?」
「元は別の村の怨嗟だけど、レイドの中で一つになりかけてる。面白いな……ねえ、服の下も見ていい?」
「は?」
「胸と背中にも刻印が広がってるでしょ。読まないと分からないことがあるの」
「お前が読むのはいいけど、なんで嬉しそうなんだ」
「別に嬉しくないよ?」
嘘をつけ、口の端が上がっているぞ。
仕方なく外套を脱いだ。ミラが後ろに回って、背中の刻印を見始めた。指先が背中の文字をなぞっていく。……くすぐったいな。
「レイド、ここ……肩甲骨の間に空白がある。刻印がない場所」
「ああ、それが何か?」
「ここだけ怨嗟が避けてるの。何か理由がありそうなんだけど……」
ミラの指が肩甲骨の間を触れた瞬間、体がびくっと跳ねた。
「っ——おい」
「ん? 感じるの、ここ?」
「かっ……感じるとかじゃなくて、くすぐったいんだよ」
「ふうん。魔人にもくすぐったいところがあるんだ」
ミラの指がもう一度同じ場所を撫でた。明らかにわざとだった。
「おい、やめろ」
「やだ。面白いから」
「ミラ——」
「はいはい。……でも、ここの空白は覚えておいた方がいいよ。なんだか、意味がありそう」
ミラが背中から離れて、俺の隣に戻った。外套を羽織り直す。
「ねえ、レイド」
「まだ何かあるのか」
「前に聞いた『繁殖』の件、まだ考えてくれてないの?」
ミラは自分のお腹をあたりをさすった。右手は服の裾にかけている。少しでも言葉を間違えたら、直ぐに服を脱いで襲いかかってきそうだ。……まずいぞ、貞操の危機だ。
「……今は特に、考えてない」
「えー、わたし本気なんだけどな。魔人とデーモンの子供、絶対すごいの生まれるよ? 新種のモンスターかもしれない。歴史に残るよ?」
「歴史に残りたくてモンスターやってるわけじゃない」
「じゃあ、何のために?」
「殺すためだ」
「殺すのが終わったら?」
「……」
その質問には、答えが出なかった。殺すのが終わったらなんて、考えたこともない。王国の全員を殺した後の自分が何をするのか、何になるのか。
「分からない」
「分からないなら、その時にまた聞くね。わたし、待つのは得意だから」
ずっと生きてきた奴に「待つのは得意」と言われると、冗談に聞こえないし、ちょっと怖い。
「……勝手にしろ」
「うん、勝手にする」
ミラはそう言って、俺の肩にもたれかかった。重さはほとんどない。擬態の体だから当然だが、温度はある。人間と同じくらいの体温が、肩から伝わった。
「ミラ、お前擬態なのに温かいんだな」
「擬態にも限度があってね。触れた時の温度まで消すと、バレるでしょ。だから表面だけは人間と同じにしてるの」
「……器用だな」
「三百年やってるからね」
しばらく、何も言わずに座っていた。俺は眠くならない体で、ミラはもたれかかったまま目を閉じている。寝ているのか起きているのか分からない。寝てるふりをしている気もする。
「ミラ」
「……」
「寝てるのか?」
「……寝てない。でも、寝てることにして」
「意味が分からないんだが……」
「いいから。……あったかいの、久しぶりだから」
久しぶり……そう言えば、初めて誰かの隣にいるって言ってたな。
まあ、いいか。肩くらい貸してやる。
結局その夜、俺は一睡もせず、ミラは寝たふりを朝まで続けた。
「……ふうん。襲ってくれないんだ、つまんないの」
そんな偽りの寝言も、俺は当然聞こえないふりをした。




