第四十一話 沈黙する教室(サイレント・パケット)
「……おかしいわね。タイムアウト(応答待ち)が頻発してる」
冬の朝、学園の廊下を歩きながら、私は手元のグリモワール――周囲には「装飾の凝った魔導書」に見えるよう偽装したデバイスのモニターを凝視していた。
異変は登校直後から始まっていた。廊下の自動照明が、私が通り過ぎてから三秒後にぼんやりと灯る。中庭の自動散水機は、シュッという音を立てたまま水が出ず、空気を噛んだような異音を漏らしていた。
「マナ、おはよう! ……って、やっぱり君も気づいてる?」
背後から声をかけてきたのはレンだ。
「このレイテンシ(遅延)は異常よ。レン、何か実害は出てる?」
「実技棟のエレベーターが途中で止まって、何人か閉じ込められてるみたいだ。みんな『今日の魔素は機嫌が悪い』なんて言ってるけど……」
「魔素のせいじゃないわ。帯域は十分にある。ただ、データが目的地に届いていないだけ。まるで、回線の途中に巨大な『壁』が立ちはだかっているみたい」
その直後、実技演習室から悲鳴が響いた。
教室に駆け込むと、そこには氷漬けになった教卓と、顔を真っ赤にして立ち尽くすセイカ・ルシアの姿があった。彼女が放とうとしたのは精密な「氷結」。しかし、魔法が発動したのは詠唱から十秒も経った後だった。誰もいない方向に放たれた氷の礫は、制御を失って備品をなぎ倒していた。
「セイカさん、落ち着いて。あなたの計算ミスじゃないわ」
私が声をかけると、セイカは縋るような目でこちらを見た。
「マナ・ナツイ! 今の現象は何!? 私の魔力が、まるで泥水の中を通っているみたいに重かったわ……!」
私は教室の管理用端子に、グリモワールを接続した。通常の「演習魔法」のパケットに混じって、見たこともないほど巨大で、かつ優先度の高い謎のデータがネットワークを占領していた。
「……何これ。一回のパケットサイズが大きすぎる。こんなの、学園のインフラが耐えられるはずないじゃない」
そこへ、古い羊皮紙を抱えたカイト・ヴァレンが、青ざめた顔で走り込んできた。
「マナ……大変だ。今のログ、俺にも見せてくれ!」
カイトは画面に表示された、暗号化されたデータの「ヘッダー」を指さした。
「これ……うちの家系が代々管理を任されてる、禁忌書庫の古い目録にある印と同じだ。書庫の最深部に封印されているはずの、化石みたいな古いプロトコルだよ。なんでこんなものが、現役の回線に流れてるんだ……?」
その時。パシッ、と空気が爆ぜるような音がして、学園中央の時計塔の針が、ガクガクと不自然な動きを始めた。一秒刻むごとに逆回転し、また戻る。
「――不具合が、隠しきれなくなってきたようだね」
入り口に、魔法評議会調査官ゼノス・グレアムが立っていた。彼は驚く私たちを無視して、不気味に震える時計塔を窓越しに見つめる。
「ゼノスさん、これって……」
「世界システムの『再起動』の予兆だよ。溜まりすぎた魔素の塵が、ついに物理法則を侵食し始めた」
私は、息を呑んだ。
今、この男は何と言った? リブート? キャッシュ?
「……あなた、今なんて言ったの?」
私の問いに、ゼノスは初めて、憐れむような目をこちらに向けた。銀縁眼鏡の奥の瞳が、システムログを読み取るデバッガーのように冷たく光る。
「無駄だよ、マナ・ナツイ。君がいくら表面上の術式をリファクタリングしたところで、基盤となるOSそのものが限界なんだ。これは数百年ごとに繰り返されてきた、この世界の『仕様』だよ」
心臓が跳ねた。
この世界の住人が知るはずのない単語。前世の、それも専門家しか使わないような概念。それをこの男は、私よりも遥かに深く理解しているような口ぶりで使いこなしている。
「……どうしてあなたが、その言葉を知っているの?」
「諦めて、その時を待つんだね。どれだけ美しいコードを書こうと、フォーマットの前では全てが無に帰す。……君のその『青春』とやらもね」
ゼノスはそれだけ言い残し、冷たい風と共に去っていった。
グリモワールの画面には、依然として正体不明の巨大パケットが居座り続けている。
「……『仕様』だから諦めろ? OSが限界?」
混乱する学園の中で、私だけが、闘志に燃えた目でモニターを睨みつけていた。
「ふざけないで。そんなクソ仕様、私がパッチを当てて書き換えてやるわ。……あなたの正体も、まとめてデバッグしてあげる」




