第四話 落ちこぼれの日常
幼稚園での算数の授業から、数日が経った。
先生は約束通り、お昼寝のあとに特別お勉強タイムを設けてくれた。
教室の隅の小さな机に二人で向かい合って、先生は丁寧に棒字法を教えてくれる。
「じゃあマナちゃん、xvはいくつ?」
「じゅうご、です」
「正解! じゃあこれは?」
先生が紙に書いたのは、「viii」だった。
(v + iii……5+3で8だな)
「はち、です」
「すごいすごい! じゃあ難しいのいくよ~。これは?」
「k」と書かれた紙を差し出される。
(kは20だ。この世界の繰り上がりの単位)
「に、じゅう……です」
「完璧ね! マナちゃんって本当に覚えるのが早いわ」
先生が目を細めて笑う。
悪い気はしない。でも、心のどこかが落ち着かない。
(こんなの、当たり前なんだけどな……)
前世の私は、大学院で解析学を学んでいた。
数字の読み方を覚えるくらい、朝飯前だ。
でもそれを正直に言えるはずもなく、私はただにっこり笑って「ありがとうございます」と言った。
「ねえ先生、縦棒ってもっと使い道があるの?」
「あら、気になる? 実はね――」
先生が紙に「k|」と書いた。
「これはkを倍にしているから、四十よ」
(k| = 20×2 = 40……やっぱり一貫してる)
「じゃあc|は?」
「えっ……cを知ってるの?」
先生が驚いた顔をした。
しまった。先走りすぎた。
「……お父さんが、ちょっとだけ」
とっさに嘘をついた。
先生は「まあ! お利口さんね」と笑って、それ以上は聞いてこなかった。
(c = 400、c| = 800……この体系、シンプルで美しいな)
窓の外から、子どもたちの声が聞こえてくる。
お昼寝から起きたみんなが、園庭で遊んでいるらしい。
翌日の自由時間のことだった。
「ねえ、いっしょにあそぼ!」
振り返ると、おかっぱ頭の女の子が立っていた。
クラスでよく見かける子だ。名前は、たしかリナ。
「……いいよ」
(子どもと話すの、やっぱり難しいな)
前世でも、人と話すのは得意じゃなかった。
ネットの文字越しなら饒舌になれるのに、面と向かうと言葉が出てこない。
それは子どもの体になっても変わらないらしい。
「マナちゃんって、すごく頭いいよね」
リナがそう言いながら、砂場に座った。
「……そんなことないよ」
「ある! せんせいがほめてたもん」
(褒められてたのか……気づいてなかった)
「リナちゃんは、魔法使えるの?」
思ったより素直に聞けた。
リナはちょっと考えてから、首を横に振った。
「ううん。パパもママも使えないから、たぶん私も無理って言われてる」
「そっか」
「マナちゃんは?」
「使えない」
「おんなじだ」
リナがにっこり笑った。
それだけだった。それだけなのに、なんだか胸のあたりが少し軽くなった気がした。
(友達……になれるのかな)
前世では、ついぞできなかったものが。
それから季節が変わり、また変わり、気がつけば幼稚園を卒業していた。
入学式の朝、母が私の髪を結いながら言った。
「マナ、緊張してる?」
「……ちょっと」
「そう」
母はそれ以上何も言わなかった。
ただ、きゅっと一度だけ、私の肩を後ろから抱いた。
「大丈夫よ」
たった四文字だった。
でも、なぜかそれで十分だった。
小学校は、幼稚園よりずっと広かった。
そしてずっと、魔法の話が多かった。
「魔法適正検査、もうした?」
「うちのお兄ちゃん、魔法使えるんだって!」
「魔法使える人って、かっこいいよね~」
休み時間のたびに、そんな会話が飛び交う。
魔法を使える子は、クラスの中心にいた。
ちょっとした火花を散らしてみせるだけで、みんなが歓声を上げる。
「すごい! もう一回やって!」
「さすが魔法使い!」
(……うん、まあ)
私はその輪の外から、静かに眺めていた。
羨ましくないと言えば嘘になる。
でも、それより強く思うことがある。
(あの火花、どういう原理なんだろう)
魔法の火花が散るとき、空気がわずかに揺れる。
熱はほとんどない。でも光はある。
エネルギーの変換効率はどうなっているのか。魔法と物理法則は矛盾しないのか。
(考え始めると止まらない……)
気づいたら授業が始まっていた。
「ナツイさん、聞いてますか?」
「……はい、すみません」
クラスメイトがくすくす笑う。
恥ずかしいとは思うけど、考えるのをやめられない自分がいる。
その日の帰り道、リナが隣を歩いていた。
幼稚園からずっと同じクラスだ。
「マナ、またぼーっとしてたね」
「……考えごと」
「なにかんがえてたの?」
「魔法の火花が、どういう仕組みなのかって」
リナがきょとんとした顔をした。
「……そんなこと考えるんだ」
「変かな」
「変だけど」
リナはくすっと笑った。
「なんかマナらしい」
(マナらしい、か)
前世では「変わってる」と言われるのが嫌だった。
でも今は、なぜかそんなに嫌じゃなかった。
空はもう夕方の色になっていた。
二人の影が、並んで伸びていた。




