第三話 『1+1』すらわからない
それから数年が経っただろうか。
偶然にも、現実世界と同じ「マナ」という名前を名付けられたらしい。
神の粋な計らいなのか、ただの偶然なのかはわからない。でも悪くないと思った。
どこにいても、私は私だ。
私がこの世界で把握していることは、まだ少ない。
ただ一つ、はっきりわかっていることがある。
「魔法によって、人生のすべてが決まる」
この世界では、生まれつき魔法を使えるかどうかが、その後の一生を左右する。
才能は遺伝によってほぼ決まり、貴族の家系に強く集中している。
世界全体で見ると、魔法適正を持つ人間はおよそ三割。
庶民の間では三割以下で、村によっては数パーセントにも満たない地域があるという。
そして私は、そのゼロだ。
(はぁ……結局こっちでも落ちこぼれか)
ため息をつきたいのに、この体はまだうまくため息もつけない。
まったく、不自由きわまりない。
幼稚園の教室は、いつも賑やかだった。
魔法適正のある子は全体の二割ほど。
残りの八割は、私と同じ魔法なしだ。
別に珍しくもない。みんな同じ「普通」のはずなのに。
(なんで私だけ、こんなに浮いてるんだろう)
遊びに誘ってもらえることはある。
でも輪の中に入ると、どこかよそよそしい気がする。
子どもの体に、アラサーの意識が入っているせいだろうか。
みんなと同じ話題で笑えない。同じものに興奮できない。
(本当は、ただ認めてもらいたいだけなのに)
小さな体は笑っていても、心の奥がいつも少し寂しかった。
ある日、幼稚園で初めての授業が始まった。
「おともだちのみんな~、今日は算数の勉強をするよ~」
「はーい!」
(ああ、こういうのやったな……)
落胆は深い。
仮にも大学院まで進み、解析学も線形代数も一通りやってきた身だ。
幼稚園レベルの算数なんて、退屈でしかない。
先生が積み木を二つ手に取り、楽しげに言った。
「積み木がひとつ、それと、もうひとつの積み木がやってきて、合体しました~。さて、積み木は何個でしょうか?」
(なめてるの……?)
思わずそう思うが、周囲の子どもたちは真剣に悩んでいる。
「えー、なんだろう……」
「難しくてよくわかんなーい」
(……まじか)
早くこの時間を終わらせたかった私は、勢いよく手を挙げた。
「はい、先生!」
「マナちゃん、答えがわかるの?」
「答えは"に"です!」
「えっ……正解! よくわかりましたね!」
そりゃそうだ。
情報科学を専攻し、解析学も線形代数も一通り学んできたのだ。
幼稚園レベルの算数など、赤子の手をひねるようなもの。
「マナちゃん、どうやって考えたの? この紙に書いてもらえる?」
先生が紙を差し出してきたので、私は少しだるそうに鉛筆を走らせた。
「先生、かけました!」
「じゃあ、見せてごらん」
しかし、次の瞬間――先生の顔が固まった。
「……これは、何なんですか?」
「え……? ただの足し算ですけど……?」
先生は困惑したように紙を見つめる。
「えーっと、この記号は何かしら? マナちゃんが自分で考えたの?」
(え……? "1 + 1 = 2"って書いてるだけだけど……)
逆に不思議になった私は、先生に聞き返した。
「じゃあ、先生はどうやってこの計算をしているの?」
「うん、今から書いてみるね……」
先生が鉛筆を動かすと、紙にこう書かれていた。
i i
ii
(……なんなのこれ)
上の行に計算する数を横並びに書いて、下の行の右側に答えを書く。
横書きの等式じゃなく、縦に積み上げていく形式らしい。
「これって、先生が考えた方法なんですか?」
「いいえ、これはこの世界で一般的に使われている記法なの。学校でも、研究でも、みんなこのやり方を使っているのよ」
当然のように言われて、かえって混乱した。
(この世界では、計算の書き方そのものが違うのか……)
「もっと大きい数はどうやって書くの?」
思わず聞いていた。
さっきまでの退屈がどこかへ消えていた。
先生は嬉しそうに紙を取り出し、丁寧に書いてくれた。
i、ii、iii、iv、v、vi、vii、viii、ix、x――
(あ、これはわかる。ローマ数字に近い)
xi、xii、xiii、xiv、xv、xvi、xvii、xviii、xix――
(10を超えても規則性がある。じゃあ20は……)
「ここから先はちょっと難しいわよ? 覚悟してね」
先生が書いたのは、こうだった。
k
(……k? 急に違う文字が出てきた)
「この"k"は何ですか?」
「kはね、この世界でとても大切な数よ。二十のことを表しているの」
(20で繰り上がる……? つまり20進法か)
頭の中で、パズルのピースが一枚はまった。
「それと、この縦棒はどういう意味なの?」
私は紙の端に「v|」と書いて先生に見せた。
「あら、よく知ってたわね! その棒はね、数字の力を倍にする記号なの」
「倍……? じゃあv|は10ってこと?」
「そう! 正解よ。でもこの棒は一本しか使えないし、同じ文字を四回以上並べることも、お行儀が悪いとされているのよ」
(なるほど。v| = 5×2 = 10、x| = 10×2 = 20 = k……体系として一貫してる)
私はこっそり、紙の端に確認を走らせた。
k = 20、その先にはc、mという桁があるらしい。
(待って。これ、かなり面白いぞ)
先生が隣をのぞき込んで、目を丸くした。
「マナちゃん……もう理解したの?」
「えっ、あ……なんとなく、です」
(転生者だってバレたくない)
慌てて鉛筆を置いたが、先生はもうすっかり驚いた顔をしていた。
「本当にすごいわ……先生もびっくりしちゃった」
褒められるのは悪くなかった。
でも、それより気になることがある。
(この世界の数学、どこまで発展してるんだろう)
(魔法の詠唱って、もしかしてこの数字体系と繋がってたりするのかな……)
窓の外では、魔法の火花を散らしながら子どもたちが遊んでいる。
私には使えない、あの光。
でも今この瞬間だけは、それがどうでもよかった。
(面白い)
久しぶりに、そう思った。
前の世界で科学を嫌いになりかけていた私が、異世界の算数に夢中になっている。
なんだか、少しおかしかった。




