第二十二話 ハロー・ワールドの点火式
図書室の隠れ家に、鼻をつく焦げたような、それでいてどこか懐かしいオイルの匂いが立ち込めていた。
「……成功、だね」
レンが、消え入るような声で呟いた。
その視線の先には、ガラクタを継ぎ接ぎして作った不格好な「ボタン」と、そこから伸びた銀色の繊維。先ほどまで、そこには確かに、魔法の才能を持たないはずの私たちが生み出した「意図的な火花」が灯っていた。
カイトは自分の右手をじっと見つめている。彼がピックツールを使い、物理的な「スイッチ」を押し込んだ感触。それが、石の中の魔力を動かし、現象へと変換した。
「僕の……指が、トリガーになったのか。イメージも、家系に伝わる詠唱もなしに」
「そうよ、カイト。君の精密な指先の技術が、魔法のプロセスの代わりをしたの」
私は、震えるカイトの肩を軽く叩いた。だが、内心では自分自身にも言い聞かせていた。
(――ハロー・ワールド。プログラムの世界なら、ようやく画面に最初の一文字を表示させただけの、本当の最初の一歩)
私の脳裏には、前世で初めて自作のコードを走らせた時の、あの無機質な黒い画面が浮かんでいた。けれど、この世界の二人にそれを言っても伝わらない。私は言葉を選び直した。
「でも、これはまだ産声を上げたばかりの状態よ。今はボタンを一回押して、一回火花が出るだけ。でも私がやりたいのは、このボタンの『組み合わせ』で、複雑な魔法を再現すること。いわば、指先で叩く『魔法の楽譜』を作るのよ」
「楽譜……。それなら僕にもイメージできる。決まった順序で鍵盤を叩けば、誰でも同じ曲が弾けるっていうことだね?」
レンの言葉に、私は力強く頷いた。
その夜から、私は狂ったように「入力プロトコル」の作成に没頭した。
まず直面したのは、圧倒的な「翻訳」の壁だった。
この世界の魔力は、二十進法に基づいた複雑な波形で流れている。それを私の知る十進法やバイナリ(二進数)の論理ゲートで制御するためには、膨大なパターンの対応表が必要だった。
(視界が狭くなる。脳が熱い。でも、心地いい……!)
前世の夏井愛だった頃、私はいつも一人だった。
研究室の隅で、モニターの光だけを友に、誰も理解してくれないコードを書き続けていた。けれど今は、隣に「物理」を担う仲間がいる。
「マナ、基板の温度が上がってる。冷やすよ」
レンが、繊細な風魔法を操り、過熱する回路を精密に冷却してくれる。
「……外装は僕がやる。この剥き出しのままじゃ、指が滑って正確な打鍵ができないだろう?」
カイトは、ヴァレン家に伝わる工芸用の小刀を使い、硬質な魔導木の端材を削り出していた。彼の手さばきは、もはや単なる「鍵開け」の域を超え、精密機器の筐体設計へと進化しつつあった。
数日後の深夜。図書室の時計塔が、午前二時の鐘を鳴らす。
ついに、三つのボタンを備えた『ロジック・グリモワール・プロトタイプ』が形を成した。
カイトが削り出した黒い木製のケースは、子供の手にも馴染むように緩やかな曲線を描き、その表面には三つの小さな真鍮製のキーが並んでいる。
「テストするわ。……入力パターン:右・右・左。機能:『局所的な熱変換』。……実行!」
私がリズム良くボタンを叩く。
カチ、カチカチ。
心地よい打鍵音が静寂に響き、共鳴石が青白く脈動した。
次の瞬間、机の上に置かれた冷めた茶が入ったカップから、シュウシュウと白い湯気が立ち上った。
「温まった……。凄いよマナ、本当に『楽譜』通りに魔法が動いた!」
レンが歓声を上げようとした、その時だった。
背後の本棚の影から、冷ややかな、けれど鈴の音のように澄んだ声が響いた。
「……夜会にしては、随分と地味な遊びをしているのね。ナツイさん」
振り返ると、そこには制服を完璧に着こなした金髪の少女、セイカ・ルシアが立っていた。
彼女の冷徹な瞳は、私たちの手元にある「黒い箱」をじっと射抜いている。
「イメージの介在しない、継ぎ接ぎだらけの魔力。……それがあなたの言う『科学』の正体かしら?」
彼女の一歩は、静かだが圧倒的だった。学園最高の天才が、ついに私たちの「聖域」に踏み込んできた。




