第一話 死に際の女
「はぁ……疲れた……」
仕事帰りの夜道で、夏井愛はひとり呟いた。
誰に聞かせるでもない言葉が、冬の空気に溶けて消える。
毎日おなじ道を、おなじスピードで、おなじ息のつき方で歩いている。何年も、ずっと。
(私って、何のために生きてるんだろう)
答えが返ってくるはずもないのに、こういう問いだけは湧いてくる。
だから今日も、さっさとアパートへ帰る。
古びたドアを開けても「おかえり」は聞こえない。
シン……と静まり返った部屋に、愛だけがいる。
「……とりあえず、栄養でも摂取しますか」
コンビニの袋を床に投げ、ベッドに倒れ込みながら、モニターの電源を入れる。
これが、愛にとってのただいまだった。
画面が明るくなった瞬間、先ほどまでとは別人みたいに顔が変わる。
「みんな~? 待ってたかな~?」
「天才科学者兼スーパーアイドルの、TOMOYAだよ~!」
「みんなのハート、打ち抜いちゃうぞ☆」
「キャー! TOMOYAくん~~~!!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
――ゴンッ!
「ちょっと! うるさいわよ!」
壁越しに隣人の怒鳴り声が飛んでくる。
「ホントすみません……!」
反射的に謝りながら、愛はそっとボリュームを下げた。
ちぇっ、と唇を尖らせて、モニターの中で笑う彼を見つめる。
(TOMOYAくんを見てる時間くらい、幸せになったっていいじゃんか……)
TOMOYAは、この国で知らない人間がいないほど有名なアイドルだ。
それだけじゃない。世界的な科学誌に論文を掲載するほどの研究者でもある。
天才的な頭脳を持ち、人を惹きつける才能を持ち、夢を全部かなえている人間。
そんな存在が、この世界に実在する。
(いいなぁ……)
画面の中の彼を見ながら、愛はいつも同じことを思う。
理系の大学院まで進んだ。研究者になりたかった。
でも研究と勉強はまったく別物で、現実は思ったより残酷だった。
成果は出なかった。心が先にすり減った。結局、研究室を去った。
今の仕事は悪くない。でも、何かを燃やしている感覚はない。
友達は、いない。恋人も、ずっとできたことがない。
学生のころから、人と話すのが得意じゃなかった。
ネットの文字の上では饒舌になれるのに、目の前に人がいると言葉が出てこない。
(TOMOYAくんだけが、私をわかってくれる)
面識もない、画面の中にしかいない人に向かって、そう思う。
おかしいとはわかっている。でも、それで救われている自分もいる。
TOMOYAを見ている間だけは、自分が誰かを好きでいられる気がした。
愛はそのまま、画面を見ながら眠りに落ちた。
翌朝。
スマートフォンのアラームより先に、ニュースの音声が耳に入ってきた。
「――人気アイドルのTOMOYAさんが、自宅で亡くなっているのが発見されました」
「……は?」
眠気が、一瞬で消えた。
「……嘘、でしょ」
テレビに目を向ける。アナウンサーが淡々と続けている。
TOMOYAの名前が、「享年」という言葉と並んで読み上げられている。
「……夢、だよね」
違う。夢じゃない。
現実だ。
胸が痛い。息が、うまく吸えない。
起き上がろうとして、できなかった。
(苦しい)
心臓が、おかしな動き方をしている。
それでも頭は、妙に冷静に状況を把握していた。
(あ。これ、心不全だ)
理系の知識が、最悪のタイミングで働く。
自分の死因を、自分で診断している。
(……TOMOYAくんと、同じ日に死ねるなら)
まあ、いっか。
そんなことを最後に思いながら、夏井愛の意識は、ゆっくりと落ちていった。
気がついたとき、愛は自分を外から見ていた。
ベッドの上に、女が一人、横たわっている。
枕元には食べかけのコンビニのおにぎり。
胸の上には、TOMOYAのぬいぐるみ。
目を閉じたまま、静かに、動かない。
(……あれ、私だ)
ぼんやりとそう思った。
不思議と怖くなかった。ただ、ひどくみすぼらしい光景だと思った。
(私の人生って……なんだったんだろうな)
答えが出る前に、声がした。
「お前さん、異世界に興味はないか?」
頭に直接、響くような声だった。
振り返っても誰もいない。それでも確かに、聞こえた。
(……もしかして、これ、異世界転生……!?)
オタクとして培ってきた知識が、即座に状況を分類する。
そして次の瞬間、愛は叫んでいた。
「行けるんですか!? 行けるなら超絶美少女設定で! 推しみたいなイケメンと恋愛したいです! あと――」
怒涛の早口に、声の主は苦笑いをするような間を置いて、答えた。
「……お前さんの希望は、全部は叶えられんかもしれんがな」
「まあ、そこで自由に生きなさい」
愛は、泣きそうになりながら頭を下げた。
(やっと、報われるんだ)
(このクソみたいな人生と、おさらばできる)
白い光が、世界を塗りつぶしていった。




