第2話 王選 エレクツィヤ
王都ヴァルシアは、黒一色に沈んでいた。
壮麗に執り行われたヤン三世の国葬から数日が経っても、家々の軒先には黒い喪旗が掲げられ、街路を行き交う人々の顔には未だ悲しみの色が濃く残っている。だが、その沈痛な空気の底で、ある種の熱気をはらんださざ波が確かに広がり始めていた。
次なる王を決める、レフスカ王国伝統の『自由選挙』。すなわち、王選の季節が、否応なくやってきたのだ。
そんなざわめきの中、一人の少女が石畳を駆けていた。焼きたてのパンの香りをまとわせた彼女の名は、ミラ・ノヴァク。この界隈で評判のパン屋の娘であり、アレクの幼なじみでもある。
「アレク! 大変よ、アレク!」
息を切らしながらアレクの下宿先に転がり込んできたミラは、大きな巻物を抱えていた。それは安価な紙に急いで印刷されたであろう、王選の候補者リストだった。
「見て、これ! 今回の王選、候補者が多すぎるからって、王国議会がたった十人に絞ったの! 五十万人からよ!? 信じられる!?」
まくし立てるミラに、アレクは呆気にとられるばかりだ。戦場から戻って以来、彼はただ静かに傷を癒やす日々を送っていた。
「それでね、ここからが本題なんだけど……なぜか、私の名前があるの!」
「はあ? お前、市民だろうが」
「ひどい! 市民だって初代王の血くらい引いてるわよ! たぶん! ……でも、それだけじゃないの。もっと驚くことがあって……」
ミラはごくりと唾を飲み込むと、リストのある一点を震える指で示した。
「あんたの名前も、あるのよ!」
「……は?」
アレクは思わず眉をひそめた。馬鹿な、と一蹴しようとして、脳裏にある光景がよみがえる。血と硝煙の匂い。黒鷲の異名を持つ敵将の巨躯。そして、自らの槍がその胸を貫いた、あの時の鈍い感触。
「……いや、俺は何も……いや……心当たり、は……ある……」
彼の知らないところで、あの日の出来事は尾ひれがつき、翼を得て、一つの英雄譚として王都を駆け巡っていたのだ。「タルフーンの黒鷲を討った、名もなき若き英雄」――民衆が渇望していた希望の物語。それが、ただの若き貴族に過ぎなかったアレクを、王国の運命を左右する舞台へと無理やり引きずり出したのだった。
(まったく、迷惑な話だ)
数日後、アレクは王城『ザメク城』の前に広がる巨大な広場に立っていた。
王国の正式な決定に基づき、選ばれし十人の候補者として出頭を命じられたのだ。集められた顔ぶれは、まさに混沌としていた。金糸銀糸で飾り立てた軍装をまとう大貴族。隣国からの影響力を背景に持つ、異国の使節団に囲まれた公子。厳格な表情の修道士。そして――場違いなことこの上ない、パン屋の格好のままおろおろと立ち尽くすミラ・ノヴァクの姿まであった。
(まるで見世物だな)
アレクが内心で毒づいた、その時だった。彼が広場に足を踏み入れたことで、人々の間にさざ波のようなざわめきが広がった。
「おい、見ろ……あれが……」
「まさか……彼が、あの黒鷲を討ったという……」
突き刺さる好奇の視線に、アレクは眉根を寄せる。彼はこの時、はっきりと気づき始めていた。この馬鹿げた王選に、自分の意思とは関係のない、巨大な何者かの思惑が働いていることを。
アレクはまだ知らなかった。
ただの英雄譚の主人公として、あるいは数合わせの駒として集められたこの『十人』が、これから先のレフスカ王国の未来を、良くも悪くも根底から揺るがす火種となることを――。