第1話 王は死に、戦場は赤く染まった
風は、鉄と血の臭いを運んでいた。
傾いた陽が広大な平原を赤黒く染め上げ、折れた槍衾と無数の骸が長い影を落としている。断末魔の叫びはすでに遠く、今はただ、カラスの不気味な鳴き声と、負傷者のうめきだけが満ちていた。
レフスカ王国の王、ヤン三世は死んだ。
そして、同盟国サヴァリアの王、イシュトヴァン四世もまた、同じくこの世を去った。
その絶望的な報せが、辛うじて戦線を維持していた兵士たちの心を、音を立てて砕いた。王という求心力を失った軍は、もはや統率の取れた組織ではなく、ただの烏合の衆と化す。
「王が……ヤン三世陛下が討たれたぞ!」
「総崩れだ! もうおしまいだ!」
「退け、全軍撤退だ! 本陣は壊滅した!」
誰かの絶叫が口火となり、恐慌は瞬く間に伝染した。兵士たちは誇りある旗を泥濘に投げ捨て、重い鎧を脱ぎ捨て、我先にと背を向ける。もはやそこに、王国騎士の矜持など欠片も残ってはいなかった。
若き貴族、アレク・コヴァルスキもまた、泥と血にまみれた敗走の濁流の中にいた。
(このままでは……ただ犬死にするだけだ)
馬上で必死に手綱を握りながらも、彼の目は背後、すなわち死地へと向けられていた。味方の後方から、地響きを伴って迫り来る圧倒的な圧。それは、この戦場において最も恐れられた存在だった。
タルフーン帝国の猛将、バシュ・ムフタール。
黒鷲の二つ名を持つその男は、巨大な軍馬にまたがり、まるで敗残兵を狩る遊戯でも楽しむかのように、その豪槍を振るっている。彼の槍が一閃するたび、レフスカの兵が面白いように宙を舞い、地に叩きつけられていた。
このままでは、全滅は免れない。誰かが、あの化け物を止めなければ。
その思いが、アレクの足を止めた。いや、彼の魂を、この場に縫い付けた。
「――お前たちは行け! 家族の元へ帰れ!」
アレクは馬から飛び下りると、共に戦場を駆けた愛馬の尻を強く叩いた。驚いた馬は嘶き、主を振り返りながらも、駆けていく。
「俺が、食い止める!」
振り返る者は、誰一人いない。誰もが逃げることに必死だった。
それでいい、とアレクは思った。彼はただ、逃げ惑う人々の背を守る盾となると決めたのだ。震える手で、先祖伝来の槍を強く握りしめる。穂先を、迫り来る黒い巨影へと向け、その場に仁王立ちになった。
地響きが近づく。
黒鷲の影が、アレク一人を飲み込もうとしていた。バシュ・ムフタールの兜の奥で、冷酷な瞳が嘲笑うかのように細められるのが見えた。
「――ッ!」
黒き槍が、唸りを上げて振り下ろされる。死を覚悟した瞬間、アレクの身体は反射的に動いていた。敵の剛槍を紙一重でいなし、がら空きになったその懐へ――。
風を裂き、空気を切り裂き、自らの体重のすべてを乗せた渾身の一撃を、ただ一点に込めて突き出した。
ドスッ、と肉を抉る鈍い感触。
時が、止まったかのように感じられた。
アレクの槍は、確かにタルフーン帝国の猛将、その分厚い胸当てごと心臓を貫いていた。信じられない、という表情で目を見開いたまま、あの巨大な体躯がゆっくりと傾ぎ、やがて轟音と共に大地に崩れ落ちた。
辺りに、束の間の静寂が訪れる。
その静寂を破ったのは、遠巻きに見ていた味方の騎士の一人だった。彼は馬を止め、震える指でアレクを指差しながら、かすれた声を張り上げた。
「討った……討ったぞ! あの若造が、黒鷲のムフタールを!」
その声に、何人かが足を止めて振り返る。
そこには、敵将の亡骸の傍らで、一本の槍を手に呆然と立ち尽くす、名も知らぬ若者の姿があった。
この日、レフスカ王国は王を失い、『空位時代』が始まった。
そして、誰もが知らなかったこの若き貴族の名――アレク・コヴァルスキの名が、混迷を極める王国に、希望の光として静かに、だが確かに響き渡り始めることになる。