微熱の夜、渋谷にて
渋谷のスクランブル交差点。
巨大なモニターから音楽が鳴り響き、無数の人がせわしなくすれ違っていく。
その真ん中で、愛華はただ立ち尽くしていた。
スマホの画面には、たった一行のメッセージ。
──「ごめん、急に仕事入った。また今度な」
一分前までは、ただの女の子だった。
プライベートな服を選び、髪を巻いて、最低限のメイクをして、誰にも気づかれないようにマスクをした。
誰のファンでもない、ただの「彼の恋人」になれる時間を夢見ていた。
その全部が、一文で終わってしまった。
冷たい風が足元を抜けていく。
帰ろうと思った。思っただけだった。
「寂しそうな顔してるね。可愛いのに、もったいないな」
声に振り向くと、そこにいたのは勝也と名乗る男。
年齢はたぶん20代後半。派手すぎず、でも整った雰囲気をまとっていた。
「彼氏にすっぽかされた?」
「……別に、そんなことないけど」
「そっか。じゃあちょっと、話し相手になってよ。時間あるでしょ?」
彼の笑顔に、どこか作り物めいた温度を感じた。
けれどそれすら、心地よかった。
それは自分が“見捨てられた”という事実に、誰かがそっと蓋をしてくれるような感覚だった。
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カフェの奥まった席。
カップの中でミルクがゆっくりと沈んでいく。
勝也は饒舌だった。
人を飽きさせない話し方、軽やかな口調、適度な間合い。
気づけば愛華は、さっきまでの重たい感情を脇に置いて、ただ話を聞いていた。
「渋谷、慣れてる感じするよね」
「仕事で来ることが多いから……あんまり自由には歩けないけど」
「芸能関係?」
「うん、まあ……アイドルって言えばアイドル、かな」
そう口にした瞬間、どこかで自己嫌悪が生まれた。
どうして正直に答えたんだろう。
でも、彼は驚くことなく、ただ笑った。
「だと思った。雰囲気が普通じゃない。……アイドルって、大変でしょ。頑張ってるんだね」
その言葉が、胸に突き刺さった。
苦しくなって、カップを置く手がわずかに震えた。
──頑張ってる、なんて言わないで。
私は今日、逃げてきた。
彼を待ちきれなくて。ひとりが怖くて、こうして知らない男と向き合っている。
でも、勝也はそれ以上を聞こうとはしなかった。
そこもまた、楽だった。
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ホテルの部屋は、思ったより静かだった。
遠くで車の音が、かすかに響いている。
カーテンを閉めると、夜の街の喧騒も途切れた。
「緊張してる?」
そう問う勝也の声は柔らかく、どこかで何度も聞いたような“演じられた優しさ”だった。
愛華は首を横に振った。
……嘘だった。
肌に触れる彼の手は、どこまでもなめらかだった。
それは誰かを傷つけないように訓練された手つきで、愛華の肩から腕へ、輪郭をなぞるように滑っていく。
「アイドルなんて、大変でしょ。頑張ってるんだね」
またその言葉。
今度こそ、呼吸が詰まりそうになった。
──頑張ってる、なんて言わないで。
私は今日、全部を放棄してここに来た。
彼に振られて、じゃなくて、見捨てられて。
ひとりになりたくなくて、ここまで転がり落ちてきた。
わかってる。
ここで“なにか”を受け入れれば、もう戻れない。
それでも。
勝也の手が、首筋に触れたとき。
心の奥で、何かが鈍くひび割れた。
服がはだける。
唇が近づく。
拒むことも、求めることも、もうしていなかった。
ただ、されるままに。
自分が今、何をされているのか、どこにいるのかさえ曖昧になっていく。
身体はそこにあるのに、意識はどこか遠く。
他人の記憶を眺めているような感覚だった。
「……いいよ、大丈夫」
自分の口から出たその声に、愛華は驚いた。
その一言が、決定的だった。
まるで自分自身に「壊れていい」と言い聞かせたようで。
そのとき確かに、心の中で何かが崩れ落ちた。
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朝。
窓の隙間から差し込む光が、白く部屋を照らしていた。
勝也はベッドの縁に座りながら、コーヒーを飲んでいた。
愛華はシーツを胸元まで引き寄せたまま、天井を見つめていた。
「なあ、うちの店来てみない? ホストっていうか、接客メインで。顔出すだけでも、お客喜ぶしさ」
当たり前のように、そんな言葉が口から出た。
昨日の夜が、商品価値の品定めだったんだと気づいたのはそのときだった。
腹は立たなかった。ただ、空っぽだった。
「……私、アイドルなんだよ」
「だからさ。そういう子、多いよ。内緒で来てるの」
愛華はそれに答えず、ベッドに背を預けた。
もう、泣くことすらできなかった。
スマホが震える。
彼からのメッセージだった。
──「ごめん、やっぱ会いたかった。今から会える?」
画面を伏せたまま、愛華は目を閉じた。
もう何も欲しくなかった。
自分が誰だったかも、どうでもよくなっていた。
ただ、心の奥で、ひとつの言葉だけが反響していた。
──壊れちゃったんだな、私。
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誰も知らない朝の渋谷。
冷たい風の中、愛華はフードを深くかぶって歩き出した。
この先どこへ向かうのか、それもわからないまま。