94. この場所に
叔父様との夕食を済ませ、私は部屋でくつろいでいた。
叔父様とはまだぎこちないところはあったけれど、それでもお互いのしてきたことや思っていることを話すことができて、今まであった溝は少しずつ埋まっていっているように感じた。叔父様は私に残った唯一の血縁者だ。傲慢かもしれないけれど、叔父様が許してくださるなら、これからも親族としてうまくやっていけたらいいと思う。
そろそろ眠ろうかと思ったところでノックが鳴った。返事をすると、扉の向こうからエドワードが顔を出す。
「叔父上にワインをいただいた。少し飲まないか?」
彼の手には赤ワインのボトルとワイングラスが二つ握られていた。
「いいわね。ここで造ったワインかしら」
「ああ、君の御父上が寝かさせていたものらしい」
私がソファに座ると、エドワードは当たり前のように隣に腰を下ろした。私たちはよく、このソファの上で本を読み、お菓子を食べ、昼寝をしていた。今夜は思い出すどの記憶よりも狭く感じる。
エドワードはグラスにワインを注いだ。螺旋を描きながら落ちていくワインは明かりに当たって薄赤く、けれどグラスの底に近づくと血のように深い赤色になっていく。
エドワードがグラスを持ち上げる。それに応えて、私も同じように返した。くるりとグラスを回せば、芳醇な香りが広がった。
「私、この土地で生まれ育ったのに、ここのワインを飲むのは初めてかもしれない」
十七でランドルフに養子入りし、王都で過ごすようになってから酒を嗜みはじめたのだ。この土地はワインの名産地というわけでもなかったから、王都で見かけることはなかった。
「初めて飲むのに、なんだか懐かしい気がする」
私がグラスを眺めていると、エドワードは言った。
「初めてじゃない」
「え?」
「忘れたのか。昔、御父上のワインセラーからこっそり盗んで二人で飲んだことがある」
……そうだ。私たちがちょうど大人への憧れを抱くようになった頃、私たちは二人でお父様のワインセラーに忍び込んだことがあった。夕飯時に真っ赤なワインを飲むお父様たち。グラスの中のワインは甘い宝石のようで、私たちも飲んでみたいと思ったのだ。
私たちは今みたいにソファに並んで、持ち帰ったワインを飲んだ。私はぶどうジュースのような味を想像していたのだけれど、そのワインは子供の舌にはひどく渋くて、けれどエドワードの手前「中々の味わいね」なんて強がった。
「思い出したわ。美味しくないと思いながら、あなたに負けたくなくてたくさん飲んだの」
「俺もだ。渋くて早く口を洗いたかったけれど、君が美味しいと言うから言い出せなかった」
「いじっぱりね。ああ、それで私たち、酔っ払って」
子どものエドワードはふらふらしながら立ち上がって、空になったグラスを振り回しながら言った。出たな、悪い龍! お前は俺が倒す!
「あなた、龍を倒す騎士になったのよ!」
「あの頃読んでいた本に影響されたんだ。子ども向けの、姫を攫った龍を倒す騎士の話だ。……覚えているか、君がどう応えたか」
「ええ? なんだったかしら。勇敢な騎士様、助けて! って?」
「そう思うだろう? けれど君は腕を……ははっ、腕をこう、上げて、よくここまで来たな、かかってこい! って、姫じゃなくて龍の真似をしたんだ」
「ああ、そうよ! それで私たち、ふらふらしながら、ぽこぽこ叩きあって、あは…‥っ、あー……もうほんと、こんなことばっかり」
笑いを抑えるようにワインを流し込む。いつの間にかこの渋くて苦かった飲み物の飲み方も覚えていた。あの頃から長い時間が経っているのだ。
「……あなたはよく、ワインは飲むの?」
不意に、悪夢に魘されるエドワードが浮かんだ。エドワードは今も、ワインと睡眠薬を飲まないと眠れないのだろうか。
遠回しに確認したつもりだったのに、エドワードは私の意図を察したようだった。
「ああ、そうか……君は見たんだったな」
「え?」
「あの日、君が夜中に俺の寝ている執務室に来たと、ウォーレンに聞いている」
見張りはあの夜も私の行動を見ていたのだ。どうして部屋に入るのを止めなかったのだろう。……ああ、私が何かした方が都合がいいからか。未遂で捕まえるよりも現行犯の方が言い逃れができない。
知られているのなら、敢えて隠すこともない。
「ワインと睡眠薬があるのを見たの。体に良くないわ」
「今はもう飲んでいない」
疑わしく睨みつけると、エドワードは逃げることもなく、むしろまっすぐと私を見つめ返した。
「言っただろう。君のお陰で俺を責める声が聞こえなくなったと。最近は薬がなくても眠れるようになっている」
「……そう、よかった」
なんだか恥ずかしくて、グラスで口元を隠す。視線を斜め下に外していると、グラスを持つ手にエドワードの手が重なった。
視線を戻す。私の方に体を傾けたエドワードと目が合った。エドワードに導かれて、私はグラスを持っていた手を下ろす。私たちの間にあった障害物がなくなってしまう。
顎を上げる。エドワードの手が、私の肩に乗る。顔が傾けられて、私は目を閉じる。
エドワードの唇は冷たかった。触れたところから体温が移って、すぐに同じ温度になる。
「……ワインの味がするわ」
「ああ」
再び重ねられた唇。何度か角度を変えて触れたあと、薄く開かれた。エドワードの舌が遠慮がちに私の下唇を舐める。私はまるでそうすることが決まっていたように唇を開いた。
エドワードの舌が私の舌に触れる。ざらりとした感触が気持ちよくて、体が震えた。こんなキスは私たちの間にはなかったはずだ。それなのになぜだか懐かしいと思った。
エドワードの指先が私の後頭部を撫でる。ぞわりと走る快感が熱い息に変わる。何かに縋りたくなって、エドワードのシャツにしがみつく。一層、キスが深くなった。
「好きだ、オフィリア」
唇の隙間からエドワードが言った。名残惜しむようなキスをして、私から離れていく。熱く濡れた灰色の瞳が、縋るように私を見詰める。
「子どもの頃からずっとだ。ずっと、君が好きだった」
胸が詰まって、泣きたくなった。
「私もよ、エドワード」
声と一緒に涙が零れ落ちた。エドワードの親指がそれを掬う。安心して、私は彼の手のひらに擦り寄った。
「今夜、この部屋で寝てもいいか」
頭の中にオフィリア・ランドルフの名が浮かんだ。ランドルフの女がエドワード・グレイと同じ部屋で夜を過ごすということが何を表すのか。
エドワードを見上げると、エドワードはふっと力が抜けたように笑った。
「君が考えているようなことは起きない。子どもの頃、俺たちは隣で寝ることに何の障害もなかったはずだ」
あんなキスをしておいて、よく言えたものだ。
けれど、私はそれが嬉しかった。
私はエドワードの腕から逃げて立ち上がった。走りだした勢いのままベッドに飛び込んで、両手を広げる。
「ほら、いらっしゃい」
エドワードは挑戦的に笑った。ゆっくりとベッドまで来ると、私と同じようにベッドに飛び込んだ。
「きゃあ!」
大男が被さるように振ってきて、私は悲鳴を上げる。当の本人は私に抱き着いたまま額を喉元に擦り付けた。目の前でエドワードのつむじが回る。右手で彼の頭に触れると、柔らかな髪の毛がくすぐったかった。
「犬みたい。行儀の悪い犬」
「君がしつけてくれ」
エドワードが顔を上げる。しつけて、なんて言っているくせに、揶揄うような表情をしていて、それが気に食わなくて私は目を背ける。
「いやよ、勝手にして」
「ひどい飼い主だ」
「飼ったつもりなんてありませんもの」
「拗ねるぞ」
「拗ねて、また無視をするの?」
今度は私が揶揄うと、エドワードはバツが悪そうに眉を寄せた。
「……悪かった」
胸の奥がきゅうっと縮んだ気がした。
「許さないわ」
エドワードの頭を撫でる。指先が愛しいと震えた。
「次私を無視したら、絶対に許さないから」
胸に埋められた顔から、籠った声がする。
「しないよ、もう、一生」
「一生?」
「ああ、一生。誓うよ」
一生。この男は、一生私と一緒にいるつもりなのだろうか。くだらない話をして、キスをして、笑って、またくだらない話をする。私たちはそんな一生を過ごすのだろうか。それはとても、いい一生な気がする。
私たちはその晩、子どもの頃のように笑いながら眠りについた。いつの間にか私はエドワードの腕に顔を埋めていて、ああ、私はずっと、ここに戻ってきたかったのだと思った。




