93. 私の知るあなた
ボートから降りると、バスケットを持った使用人が待ち構えていた。船番が連絡をいれたのだろうか。木陰近くにピクニックシートが敷かれている。ブランチにはちょうどいい時間だ。
私たちはピクニックシートに腰を下ろした。
バスケットを受け取り開けると、肉を挟んだパンといくつかのフルーツが入っていた。私はパンを取り出し一口かぶりつく。香ばしい小麦と肉汁、シェフ得意のソースの味が口いっぱいに広がった。
「懐かしい味」
隣で同じようにエドワードがパンにかぶりつく。
「ああ、君の家の料理は相変わらず味が濃い」
「あら、文句かしら?」
「まさか。濃くて美味いと言ったんだ」
エドワードは口の端についていたソースをナプキンで拭いた。それから私に向かって新しいナプキンを差し出す。
「手にソースがついている」
自分が拭いたあとに言うなんて卑怯な人だ。私は顔を背けてナプキンの受け取りを拒否してみせる。
「どうせまた溢れるわ。食べ終わったあとに拭くからいいの」
言ってすぐ、貴婦人らしくない言葉だと思う。けれど、故郷でまで貴婦人でいる必要はあるのだろうか。今は周りに侍女たちだっていない。私はここでお嬢様と呼ばれるのに慣れすぎてしまったみたいだ。
端なく大口を開けてパンに齧り付く。二人で食べる分にと用意された昼食は、二人で食べるには少しだけ多かった。シェフたちは張り切ってくれていたのかもしれない。帰ったら久しぶりに厨房に行ってお礼を言おう。
「食べすぎたな」
バスケットを空にした後、エドワードは後ろに手をつきくつろぎながら言った。
私の腹もたっぷり膨れていて、苦しいくらいだ。
「ほんと、お腹いっぱい。食後のダンスでもする?」
「ダンス? 食べ終わったばかりだろう」
エドワードに否定されると余計に意見を通したくなるのが私の悪いところだと思う。
「いいじゃない。ほら、立って!」
私が立ち上がり両手を差し出した。エドワードはにやりと笑って私の手を取る。そうしてわざと私に体重がかかるように手を引っ張った。私がどれだけ持ち上げようとしても、ぴくりとも動かない。
「もう、一人で立ってよ!」
「悪かった」
「きゃあ!」
そう言って一気に立ち上がろうとするから、反対に私の体が倒れそうになった。間一髪のところでエドワードが私を強く引っ張る。私は今度は前のめりにエドワードの胸に寄りかかってしまう。
「……ははっ、前に後ろに騒がしいな」
エドワードの胸が上下に揺れた。
まったく、誰のせいよ。私は両手でエドワードを突き放し、睨みつけた。
「ふざけていないで、ちゃんとダンスに誘いなさい」
「はいはい」
エドワードは服の乱れを整えた。そうして右手を胸の下に当て、深く礼をする。
「オフィリア様。どうかこの私と踊ってください」
「……いいわ、踊ってあげる」
エドワードが差し出した手に、ゆっくりと自分の手を重ねる。
エドワードは昼食前にグローブを外していた。だから、指にできた剣だこやかさついた皮膚、私の手を包み込むような手のひらの大きさをリアルに感じる。先ほど立ち上がる時にも触れたはずなのに、妙に照れくさい。
「曲は?」
エドワードの手が腰に回される。私はつい、顔を背ける。
「パーティじゃないの。適当でいいわ」
「難しいことを」
エドワードは悩んだ後、足を踏み出すのと同時に小さく鼻歌を歌い始めた。彼の低い声で奏でられるその曲は軽妙で、それも聞いたことがない曲だったから、私は吹き出してしまう。
「何よ、その曲」
「覚えていないか。子どもの頃二人で作った曲だ」
「え?」
二人で作った曲? 頭の中の箱が開いたように記憶がよみがえる。そうだ、舞踏会用のダンスを練習することに飽きた私たちは、二人で楽しく踊れる曲をつくって遊んでいたのだ。
「今思い出したわ。懐かしい」
「ステップも覚えているか? ほらここ、ワン、ツー」
スリー。カウントと一緒に体が持ち上げられる。ここで大きいリフトを入れよう。二人で決めたステップだ。
私の体はふわりと浮かんで、高いところからエドワードを見下ろしていた。なんだかすごく、気持ちがいい。空気がきれいで、体が軽くて、本当に空を飛んでいるみたいだ。
数秒後、トン、と着地する。
「君はあの頃より軽くなった。もっと食べた方がいい」
再び手が組まれる。風が吹いて、エドワードからは太陽と少しの汗が混じった匂いがした。
「……香水、今日はつけていないの?」
「ああ。君が気に入ってるなら普段からつけようか」
「いいわ、つけなくて」
ただ、私の知ってるエドワードの匂いだったから。
私はステップを踏んでいた足を止めた。合わせるように、エドワードも足を止める。
組んでいた手を下ろす。エドワードの左手が私の頬に触れた。くいっと力を入れられて、私はそれに従うように顎を上げる。
灰色の瞳と目が合う。エドワードはふっと、力が抜けたように笑った。私も同じように笑って、目を閉じる。
唇に柔らかいものが触れた。私はこれを知っている。胸の中を熱を持った何かが満たしていく。
たった数秒で、エドワードは私から離れた。頬に触れていた左手が私のうなじを撫でる。優しい手つきが苦しくて、気付けば私は泣いていた。
「悪い、嫌だったか」
エドワードは慌てて私の涙を拭った。それでも、私の涙は止まらない。
「……違う、違うの」
ひく、ひくと横隔膜が上下して、うまく喋ることができない。それでも私は精一杯、顔を上げたまま言った。
「エドワードが、私のエドワードが、戻って、きたから……っ」
だって、目の前にいるあなたは、ずっと知らない人みたいだったの。
疑うのをやめた後だって同じだった。エドワードは私に他人を気遣うみたいなことばかり言って、私だってそれに素っ気なく返して。私、ずっと寂しかった。
ふと、エドワードが悪夢に魘されながら「君に会いたい」と言ったことを思い出した。エドワードも私と同じ気持ちだったのかもしれない。
私たちは長い間、お互いの知る私たちではなかった。それが今、やっと戻ってきた。
「ずっと、傷つけてごめん」
エドワードは私を強く抱きしめた。私の知っている体温。私の知っている匂い。心臓の音。
顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃの視界で、エドワードを見つめる。キスが降ってくる。私の好きな、猫のじゃれあいのようなキス。何度も、角度を変えて触れあった。
私の頬に、エドワードの涙が落ちてくる。私の涙と混ざって、一つになる。
私にはたったそれだけでよかった。たったそれだけで、彼との間に起こった全てのこと――孤独の夜も、痛む傷も、全てを受け入れて生きていくことができる気がした。




