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92. 湖畔 2

 やっぱりボートになんて乗るんじゃなかった。

 ゆらゆらとしたボートの浮遊感が、私を憂鬱にさせる。


 ここで思い出すのは子供の頃のことではなく、バリー夫妻と行った王都の湖だ。あの日の孤独が待ち構えていたように私の中に侵食してくる。


 エドワードが私を知らぬ振りをしていた頃、私は私ばかりがエドワードとのことを覚えているのだと思っていた。それは確かに悲しかったけれど、一方で楽でもあった。私の知るエドワードはいなくなってしまったのだと割り切ることができたから。


 それなのにあの日、エドワードも昔のことを思い出しているようなことを言うから、私は余計惨めになった。どうして私のことを覚えているくせに、私に笑いかけてはくれないんだろう。


「……ボートに乗るのは嫌だったか」


 エドワードが言った。私は無意識にエドワードから目を逸らしていたみたいだ。

 湖面に向けていた顔を上げる。あの日と違って、エドワードは私を真っ直ぐと見つめている。


「……嫌なわけじゃ、ないけれど」


 言葉が続かない。私はエドワードに何と言えば伝わるのか分からなくなってしまった。


 エドワードはたっぷり時間を掛けて私の答えを待っていた。けれど私が何も言えないのを悟ったのか、ふと息をつく。


「悪かった。あの日のことを塗り替えたいと思ったんだが、俺の独りよがりだったみたいだ」


 ボートに着いた汚れならばインクを上から塗ればなかったことになるかもしれない。それでも実際は見えなくなっただけで汚れはついたままだ。

 あの日感じた私の惨めさは塗り替えるだけでなかったことになるものなのだろうか。


 あの日と同じように、湖面に映る自分を眺めてみる。少しはマシになったかもしれない。けれど、私は相変わらず不安そうな顔をしていた。


 指先で湖面を撫でる。あの日よりも水が冷たくて、全身がぶるりと震えた。すぐに指先を掬い上げて反対の手で温めてやる。冷えた指先が、妙に悲しい。


「私、湖に落ちてやろうと思っていたの」


 自然と口から溢れでた。けれど言ってしまった後に、意地悪だったかと思う。私は彼を責めたくて言ったわけではなかった。


 窺うように覗き込むと、エドワードは傷ついたようでもなく、それどころかなんの色も感じ取れない声音で「奇遇だな」と言った。


「俺は君を湖に引き摺りこんでやろうと思っていた」

「え?」


 予想もしていなかった返しに、私はどう反応すればいいか分からなくなる。


 エドワードは冗談を言ったのだろうか。であればと笑い飛ばそうとするけれど、彼の表情にはふざけた様子はなかった。ただ、懐かしむように目を細めて湖面を見つめている。


「湖の底で二人きりになれば、俺は何もかもを忘れて君と二人で過ごせるんじゃないかと思っていた。君を拒絶していたのは俺なのに、酷い矛盾だ」


 何もかもを忘れて、二人で。

 それはきっと、ブリジア王国とシェルヴァ公国の問題とか、私がオフィリア・ランドルフであることとか、それ以外にも考えなければならない多くのことだろう。そういうことを全部忘れて二人でいたいと、あの時のエドワードは思っていたのだろうか。


「そう思っていたのに君が俺を置いて一人で落ちようとしているから、どれだけ焦ったことか」


 エドワードが息を吐きながら笑うから、なんだか急に、くだらなくなる。


「馬鹿みたい」

「ああ」

「本当に、勝手な人」

「そうだな」

「そういうことを、話せばよかったのよ」

「君の言う通りだ」


 でも、今さらだとしても、話せてよかったと思うよ。


 あの日、私が一人で湖に落ちたとしてもエドワードは決して追いかけてきてはくれないと思っていた。けれど本当はエドワードも同じようなことを考えていたのかもしれない。そう思えるだけで私の惨めさが薄れていく気がする。


 塗り替えたいと、エドワードが言った意味が少しだけ分かった気がした。


「でも、今あなたと二人で落ちるのは絶対いやよ。船番に怒られちゃう」


 私はふいっと顔を背けた。今度は明確に意地悪を言ってやろうという気持ちがあった。誰があなたと落ちてやるものですか。


 エドワードは暫く黙っていた。私が根負けして振り向こうとすると、不意に水が掛かる。


「つめたいわ!」


 エドワードは笑った。


「十年前の仕返しだ」

「あの時も十分に仕返しをしたはずよ!」

「そうだったか」

「もう!」


 やり返してやろうと乗り出すと、ボートがぐらりと揺れた。きゃ、と叫ぶ前に、すぐに腰に手が回って、エドワードが私を抱き寄せる。


「危ない」


 声が近い。落ちそうになったせいで私の心臓はバクバクとうるさかった。この鼓動が、触れたところからエドワードに伝わってしまっていたらどうしよう。


「……私が落ちたら助けに入ればいいじゃない。泳ぎの練習、したんでしょう」


 なんとなく負けたくなくて揶揄うと、エドワードは振り払うように鼻で笑った。


「昔の話だ。残念ながら、君がどれだけ嫌がろうと二人で沈むしかない」

「遠慮します」

「それなら大人しく乗っておけ」

「あなたもね」


 吐き捨てるように言って元の場所に戻る。

 先ほどまでエドワードに触れていた背中から熱が引いていく。それがすごく、寂しかった。

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