91. 湖畔 1
普段よりも数段高い視界に懐かしさを覚えた。腹の奥に力を入れて背を伸ばす。ヴェールが一歩踏み出すと、その揺れが腰から全身に広がった。
手綱から緊張が伝わってしまったのかもしれない。ヴェールは私を揶揄うつもりなのか、わざとらしく尻を揺らした。旧友の悪ふざけのおかげで肩から力が抜けていく。
「姿勢がいい」
リードロープを引いていたエドワードが言った。
「ええ。体が覚えていたみたい」
「支える必要はなかったかもしれないな。そこで待っていてくれ、一緒に走ろう」
エドワードはそう言って一度私から離れたけれど、すぐに準備していた彼の馬を連れてきて、私の隣で騎乗した。先ほどまで下にあった彼の頭が斜め上に並ぶ。
「行こうか」
声を合図に手綱を引くと、広い草地に二匹分の蹄の音だけが響いた。一定のリズムで続いていくその音がなんとも心地いい。
「つらくはないか」
「ええ、全く」
「そうか、よかった」
エドワードが私を気遣う言葉を掛ける。私はなんだか釈然としない気持ちになった。
久し振りに馬に乗る私を気にしてくれているのだと思う。けれども、私の方が馬を習い始めたのは早いのだ。子どもの頃は私が乗り方を教えてあげたこともあったのに、立場が逆転してしまったようで気に入らない。
気に入らないですよね、お嬢様。ヴェールが首を出し、くいっと手綱を引っ張った。私も気に入りません。こいつらにこちらが上だと分からせてやりましょう。
好戦的な馬だこと。私はヴェールのたてがみを撫でる。だけど、あなたのそういうところ、大好きよ。
私はヴェールに応えるように、手綱を強く引いた。
ヴェールが大きく嘶いた。その勢いのまま走り出す。体全面に強い風が向かってきて、私は自然と前傾姿勢になった。
「オフィリア!」
後ろで慌てるエドワードの声が聞こえた。なんだか少し、気分が良い。
「追いついてごらんなさい!」
私は振り返ることなく叫ぶ。私を乗せた悪友は同調するように高く笑った。
***
頬に当たる風が湿気を含んだものに変わりはじめるのを感じた。ヴェールもそれに気付いたのだろう、段々と走る速度を落としていき、やがて止まった。
「俺の勝ちだ」
私よりも先に着いていたエドワードが得意気に言った。私は悔しくて言い返す。
「仕方ないでしょう。私もヴェールもブランクがあるの」
「それなのによく勝負を挑んだものだ」
「勝てると思ったんだもの」
私が右足をまたぎ移し揃えると、エドワードは下から手を差し出した。私は彼の手を掴んで下馬する。振り向いてヴェールの首を叩いてやると、舌を出して喘いでいたヴェールは疲労を誤魔化すように大きな口を開けて笑った。
「昔は私の方が速かったわ」
エドワードが馬を括り付けた木を見つけ、そこに向かって歩き始める。
「君はいつもそう言うが、君の方が速かったのは最初の三か月だけだ」
「嘘よ! 一年は私の方が速かったわ。それに、あなたが追いついてからも同じくらいだったはずよ」
「どうだか」
リードロープを括り付ける。ヴェールはやっと仕事が終わった、というようにぶるんと顔を振った。
「ヴェールも疲れたわよね。ありがとう」
首回りを撫でてやる。相当無理をしたのか激しく脈打っていた。ヴェールも存外、負けず嫌いだ。
「体は痛くないか」
エドワードが聞く。私はふふんと鼻を鳴らす。
「大丈夫よ。実はね、最近鍛えてるの」
狩猟大会以降、時々シャーロットの弓の練習に付き合っていたのだ。そのせいか、昔ほどではないけれど、以前よりも筋力がついた気がする。
「そうか。ではまだ動けるか」
どきりとする。体は痛くないけれど、肺は疲れていたし、もう走りたくはない。
「なにがあるの?」
恐るおそる聞く私に、エドワードが前方を指した。
「この先に湖があっただろう」
湖? 私は王都近くの湖に行った日のことを思い出す。エドワードがまだ私を疑っていた頃のことだ。私はあの頃のことは思い出したくないのだけれど、エドワードは何とも思っていないのだろうか。
「……そうね。行きましょうか」
私だけ気にしているのが嫌で、私は精一杯の虚勢でそう返した。
***
子どもの頃の記憶は不思議だ。あの頃の私にとってこの湖は大海のように広く、日の光をキラキラと反射する湖面をいつまでも見ていられたのだけれど、今は小さく凡庸な湖に見える。
刷り込みか、思い入れか。それでも心が躍ってしまうのもまた不思議だった。
桟橋近くの小屋を覗き込む。中では船番がつまらなそうにロープを撚っていた。しばらく見ていると船番は私たちの気配を感じたのか、顔を上げ、じっと眉間に皺を寄せた。
「お、嬢様……?」
「久しぶり。今、いいかしら」
「ええ、ええ……!」
船番は急いで椅子から降りて駆け寄ってくる。
「お久しゅうございます、お嬢様、ああ……っ! よくぞご無事で!」
「心配をかけたみたいね」
「ええ、ええもう、私たちはお嬢様の心配をするのは慣れっこですから! 今さらでございますよ!」
全く、ひどい言い草だ。
私は呆れながら、小屋の外に視線をやった。
「ボートに乗ってもいいかしら。ほら、覚えてる? エドワードもいるの」
「ここで溺れた時は世話になった」
エドワードが礼を述べると、船番は恐ろしいことを聞いたというように身を震え上がらせた。
「だめですだめです、乗せられません! 旦那様にお嬢様とエドワードお坊ちゃまを二人だけで乗せないよう厳しく言われているんです、から……」
言って、船番は気付いたのだろう。もうそれを咎める父も母もいないことに。口をもごもごとさせて、次の言葉を探している。
「私たちはもう大人よ」
微笑んでやると、船番は居心地が悪そうに頬を掻いた。
「……絶対に暴れてはいけませんよ。今度溺れても助けられませんからね」
「いくつだと思ってるのよ」
舟番はまだ不安そうに目をきょろきょろさせていたが、諦めたのか立ち上がって桟橋へ向かった。




