90. 厩舎
妙に目覚めが良かった。眠っていた時間はいつもより少ないのに、体が軽くて、頭もすっきりしている。
そうか、夢を見なかったのだ。それだけで、こうも調子が変わるのか。
少しして侍女たちが朝の準備を手伝いに来る。侍女たちは私の顔を見ると、目をぎょっと見開いた。
「奥様、瞼が……!」
デイジーが声を上げると、それを咎めるようにヒラリーが咳払いをする。次いでハリエットが何もなかったように微笑んだ。
「冷たい水もご用意いたしますので、お待ちください」
「ええ、ありがとう」
私は侍女たちが用意した冷たいタオルと温かいタオルを交互に瞼に当てる。目覚めが良かったせいで気付かなかったけれど、一晩中泣き腫らした私の瞼は重く腫れていたようだ。意識し始めると途端にヒリヒリと痛んだ。
瞼の腫れも治まり、着替えや化粧の準備が終わった頃、ハリディ家の使用人が顔を出した。
「公爵閣下がお呼びです」
「ありがとう。叔父様はどうしているかしら。先に朝の挨拶に伺いたいのだけど」
「『私のことは気にせず好きに過ごせ』と申しつかっております。『夕飯の時間まで顔を見せなくてもいい』とも」
「……そう」
寂しく思ったけれど、叔父様の気遣いなのだろう。私は侍女たちを連れてエドワードの元に向かった。
部屋に着くとエドワードは「よく眠れたか」と聞いた。昨晩、彼の胸の中で泣きじゃくったことを思い出す。普段なら言わないような弱音も吐いた気がする。
気恥ずかしくて「ええ」とだけ返すと、「そうか」とだけ返ってきた。慣れたやりとりのはずなのに、今日はどこか違和感を覚える。私たちはいつもこんな風に会話をしていただろうか。
釈然としないまま、エドワードと向かい合わせにソファに座った。
話題は予想していた通り、両親の事故現場へ向かう旅程の調整だった。
「三日目まではご両親が辿った通りの経路でいいだろうか」
「ええ、宿泊先も同じで」
私は侍女たちに父の友人の経営するホテルに出す手紙の代筆を頼んだ。三日目以降はエドワードの補佐官に選定を任せてもいいかと言うと、デイジーが小さく「あの」と手を上げた。
「なにかしら、デイジー」
「差し出がましいかもしれませんが……三日目に伺う場所の近くに私の家の別荘があります。滞在可能か確認してもよろしいでしょうか」
「そうなの? 助かるわ」
デイジーは嬉しそうにへへ、と笑った。
準備の時間を考えると、ここに滞在するのは一週間程になりそうだ。昨晩焦って発とうとしたことが今更ながら恥ずかしくなる。それでもやっぱり気持ちは正直で、じりじりと急いてしまうのだ。
私の焦燥は表に出てしまっていたのだろう。エドワードが慰めるように言った。
「屋敷でもできることはある」
「ええ、……そうね」
焦っていても碌なことにはならない。私は深く息を吐いて、できることはある、と心の中で復唱した。
***
話し合いが終わった後、私はエドワードと二人で厩舎に向かった。御者のエルトンのことについて聞き込みをするためだ。
厩舎に近づくにつれて、草と土と獣の混ざった匂いが濃くなっていく。
そうして厩舎の前に着いた時、一人の馬丁が私に気付いて声を上げた。
「お嬢様!」
その男は、私がまだこの屋敷にいた時から勤めていた男だった。男の声を聞いた使用人たちが厩舎から集まってくる。馬丁だけでなく、奥で休んでいた御者たちも来たようだ。戻っているとはお聞きしていましたが、こちらに来ていただけるとは。お元気でしたか。ああ、お綺麗になられて。お隣にいらっしゃるのはエドワードお坊ちゃまですか、ご立派になられて!
次々と言う彼らを制して、私は聞いた。
「エルトンって御者を覚えているかしら」
「エルトン? ああ、あの……」
先ほどまで騒がしかった彼らは、急に示し合わせたように黙った。あの、旦那様と奥様が亡くなった時に運転していた。そう発言していいか迷ったのだろう。
しばらくして一人の御者が口を開いた。
「覚えていますよ。旦那様が連れてこられた男ですよね」
それを皮切りに、少しずつ情報が出されていく。
「話のうまいやつでした。どこか胡散臭いのに、あれが話し始めるといつの間にか話を聞いてしまう」
「人に酒を飲ませるのも得意だった。俺はあいつに煽てられて、何度要らぬことを言わせられたか!」
「とにかく賭け事が強かった。どちらが優勢かを見抜く目があったんでしょうね」
私は彼らに聞いた。
「家族や親しい女性はいたかしら」
皆は首をひねった。
「変なやつでもありましたから、女には好かれなかったと思いますよ」
「休暇をもらっても行く場所がないと言っていましたから、家族もいなかったんじゃないんですか」
「よく飲みには行っていたみたいでしたが、特定の知り合いがいたようにも見えませんでした」
親しい人を人質に取られて、という線が薄くなっていく。エルトンという男はただ巻き込まれただけなのだろうか。あるいは、人質はなくともエルトン自身が脅されたのかもしれない。
黙りこんで悩んでいると、一人の馬丁が我慢できないというように言った。
「お嬢様、ヴェールにも会ってやってくださいよ!」
男は嬉しそうに厩舎を指さした。その先には、私が昔誕生日祝いにもらった、白馬のヴェールがいた。
「……懐かしいわ」
私は誘われるようにヴェールに近づいた。
少し大きくなっただろうか。記憶よりも首が太く立派になったように思う。美しい毛並みは昔のままだ。
ヴェール。名前を呼んでやると、ヴェールは誇らしげにぶるんと鼻を鳴らした。
「乗ってやってくださいよ。こいつ、お嬢様がいなくなってからずっと元気がなかったんですよ」
「俺たちの言うことを全く聞かなくなりやがって! 叱ってやってください!」
ヴェールが余計なことを言うなとでも言わんばかりに口を大きく開けた。
私は宥めるようにヴェールのたてがみを撫でた。
「残念だけれど、やめておくわ。遊んでいる時間はないもの」
「少しくらい息抜きをしてもいいだろう」
不意に、後ろからエドワードが口を出した。
「一週間も滞在するんだ。そう根詰めなくてもいい」
「でも……私、長い間乗馬はしていないの。うまく乗れないかもしれない」
「俺が支えよう」
厩舎の奥から囃し立てるような口笛が響いた。乗ってやってくださいよ、お嬢様! とどめを指すようにヴェールが嘶く。
「……着替えてくるわ」
私はそう言って部屋に向かった。
手のひらにはヴェールに触れた感触が残っていて、私の心臓を高鳴らせた。




