9. 舞踏会 1
「冗談、かしら?」
私が眉を顰めても、クリスの表情は変わらないままだった。さっきまでそんな素振りもなかったくせに、流し目で私を捉えて、妙に色っぽい声を出す。
「冗談じゃないよ。俺、結婚相手を探しに王都に来たんだ」
「だったら未婚の可愛いお嬢さんに声を掛けた方がいいわ」
「君以上に可愛い人なんていないさ。言われない?」
「言われすぎて、今さらなんとも思わないの」
「さすが」
クリスは声を出して笑ったあと、不意に真面目な顔をした。
「今日、俺と話してどう思った? 俺はずっと楽しかったよ。毎日君とこうして話せたら幸せだろうなと、そう思ってた」
私だって楽しかった。
クリスは私が嫌なことを考える暇もないくらい話し続けてくれていた。彼の話を聞く時間が、楽しくないわけがない。
黙り込む私の手の甲に、クリスの指先が触れた。はっとして顔を上げると、クリスは微笑んだまま、私の耳元に口を近づけた。
「ジョッキ、空いてるね。おかわりする? それとも俺の泊まってる宿で飲みなおす?」
――彼の甘い誘惑に、私は都合のいいことを考え始める。
私がこの男といることを選べば、この男は私のことを大切にしてくれるのだろうか。何年も無視をすることも、愛人を連れ込むこともなく、毎晩同じテーブルについて、夕食を取りながらその日あったくだらないことを話す。この男と一緒なら、そういう日々を送れるのだろうか。
そうしてふと、正気にもなる。
酒場で出会った既婚の女を宿屋に呼ぶ男は、果たして女を大切にすることができるのだろうか、と。
「帰るわ」
私はクリスの手を払い立ち上がった。
酔いは回っているけれど、命を賭けたいと思えるほど彼の誘いを魅力的には感じない。
「楽しかったわ、ありがとう」
クリスは誘いを断られたというのに不貞腐れた様子もなく、笑顔で手を振った。
「残念。俺に会いたくなったら、この店にいつでもおいで」
「はいはい」
なんだかどっと疲れて、私は適当な返事をし店を出た。
夜の冷たい風がアルコールで火照った体を冷ましていく。来た時よりも暗い街は、急に現実を見せつけてくるようで心細さに襲われた。
私は首にかけていた笛を手に取る。口につけて息を吹き込もうとした時、闇夜に二つの月が浮き上がった。
「楽しめた?」
ヒューは新しいローブを被っていた。私が酒場にいる間に取りに帰ったのだろうか。それにしてはいいタイミングで迎えにきたものだ。
私はふと、クリスとのやりとりもヒューに知られているのだろうかと頭に過った。……別にやましいことをしたわけでもないのだから、恥じる必要もないのだけれど。
余計な考えを捨てて、図らずもお揃いになったローブを被りなおした。
「まあまあ楽しめたわ」
嘘ではない。賑やかな人の声も、今まで飲んだことのないお酒も、もう二度と会うことのない人との会話も、どれも新鮮だった。
一時だけでも私の閉塞的な生活を忘れるには十分だ。
「そ、よかった」
ヒューは私に手を伸ばした。私は彼に近づいて、その手を取る。
「それでは帰りましょうか、公妃様」
まるで従者のような丁寧な言葉選びが、私を虚しくさせた。先ほどまでの時間は全部偽物だったのだと、いやでも実感させられる。
行きと同じようにヒューに抱えられて、私は私のいるべき世界に戻っていった。
***
馬車を下り、エドワードの姿を見た時、私は頭を殴られたようなショックを受けた。
社交界シーズンの開始を告げる王宮の舞踏会に、今年は初めて夫婦二人で参加をする予定だった。
夕方、私は当然同じ馬車で王宮に向かうと思っていたのだけれど、「旦那様の馬車は先に出発いたしました」なんて執事長に言われ眩暈を感じた。まさか、エスコートすらしないつもり?
嫌な動悸を抱えていた私は、王宮に到着したときに彼の姿を見つけて、一瞬安心してしまった。
次の瞬間には後悔することになるとも知らずに。
「スーツ、私と合わせたものを仕立てておいたはずですけど」
目の前のエドワードは、黒地に紫のアクセントが施されたスーツを着ていた。私の薄水色のドレスとはどう考えてもセットにはならない。――先日選んだシャーロットのドレスと同じ生地に見えるのは、勘違いだろうか。
エドワードは私の文句に応えることもなく手を差し出した。私は怒りで倒れそうになりながらも彼の手を取って、一人で入場するよりはマシだと自分に言い聞かせる。
数名の部下を引き連れ、王宮に入っていく。
処刑場に連れて行かれるかのように、私の心臓は嫌な音を立てていた。
会場の門番に家名を告げる。重い扉が開かれる。門番が大きく息を吸って、入場のアナウンスを叫んだ。
「グレイ公爵夫妻のご入場です!」
会場中の視線が一気に降り注ぐのが分かった。そのはずだ。エドワードが王宮の舞踏会に参加するのは今回が初めてで、来たかと思えば夫婦ちぐはぐな格好をしているのだ。噂好きな貴族たちにとって、いい餌にしかならない。
頭が沸騰したように熱くなっていく。はやく隠れてしまいたい。
私の願いが叶ったのだろうか。私たちから注目を奪うように大きなファンファーレが鳴り響いた。
「国王王妃両陛下のご入場です!」
今まで奏でられていた静かな音楽から一転して、雄大な曲が流れる。少ししてその音がぴたりと止むと、静かな会場にしわがれた男の声が響いた。
「面を上げよ」
国王陛下の声に、貴族たちが一斉に顔を上げる。その視線の先には国王陛下と王妃様が並んでいた。
国王陛下と王妃様は年の差のある結婚だった。こうして二人が並んでいるのを見ると、夫婦というよりも親子に見える。
お年を召した陛下は艶のなくなった白髪を光らせて、社交界シーズンを告げる挨拶を始められた。
国家情勢の話や、今年社交界デビューをする貴族たちの紹介。
外国から参加するゲストの紹介では、シェルヴァ公国の名は読み上げられなかった。あくまでもシェルヴァ公国はブリジア王国に臣従していると示したいのだろう。小さなことだけれど、巻き込まれている私はそれだけで頭痛がひどくなった。
国王陛下の挨拶が終わると、本格的にパーティが始まった。
賑わいが戻っていく中、私はエドワードをちらりと見上げる。無愛想なこの男はどう動くのか。
窺っていると、エドワードは急に歩き出した。
「ちょっと、どこに……」
彼の腕に掴まっていた私は振り落とされないように着いていく。私の問いかけを無視したままエドワードが向かったのは、国王陛下の元だった。
「国王陛下」
国王陛下はホールに降りてきたばかりの自分に頭を下げるエドワードに驚き、目を見開いた。
「……久しぶりだな、グレイ公爵閣下」
「ええ、貴国のパーティに伺うのは初めてですから」
……"貴国"ね。
陛下の挨拶に対する仕返しなのだろう。気がつけば周囲の貴族たちも私たちを注視していて、張り詰めた空気が辺りを覆っている。
隣で聞いている私は居た堪れなくて、視線を下げた。
「実は今回、陛下へご紹介したい者がおり伺いました」
エドワードは挨拶もそこそこに言った。
……嫌な予感がする。まさか。
私の予感は、時間も空けずに的中することになる。
「シャーロット」
エドワードは後ろを振り向いて、彼女を呼んだ。
美しいドレスを纏った彼女が群衆の中から堂々と姿を現した。気が付かなかったが、きっと一緒に入場した部下たちの中に彼女も紛れていたのだろう。
試着をした時とは違ってヘアメイクを施された彼女には迫力と呼べるほどの美しさがあり、私は反射的に後ろへ下がってしまった。
陛下の前に、お揃いのスーツとドレスを着た似合いの男女が並ぶ。
エドワードはシャーロットの腰に手を当て、恭しく頭を下げた。
「ご紹介致します。シャーロット・ブレアム男爵です」