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89. 隣で

 遅い食事を済ませた後、私たちは各々の寝室へと解散した。


 叔父は昔私が使っていた部屋をそのままにしていてくれたようだ。定期的に掃除をしてくれていたのだろう、埃っぽさを感じることもない。


 ベッドに倒れ込むと太陽の香りがした。柔らかな布団に顔を埋める。叔父の気遣いを感じて、ああ、消えてしまいたいと思った。


 血と泥で汚れた父母の姿が浮かんでくる。父母はあんな死を迎えていい人たちではなかったはずだ。重なるように、あの日私が記したサインを思い出す。オフィリア・ハリディ。許されることのない罪を犯した者の名だ。


 心臓が獣に喰われたように、空っぽになっていく。


 事故のことを調べている間はよかった。集中していれば、自分が犯した罪のことを頭から追い出すことができた。それなのに、一人になった途端これだ。


 消えてしまいたい、と、もう一度思った。そうして考える。もしあの日、私がサインを拒み続けることができたら、私はお父様とお母様と一緒に殺してもらえたのだろうか。


 分かっている。消えたいとか、死にたいとか、そんなことを願う権利は私にはない。

 私はただ、そうやって責任から逃れたいだけだ。死ねば許されると思っているのだ。私一人がいなくなったとしても何も変わらないのに、それでも、と思ってしまう。


 不意に、ノックの音が聞こえたような気がした。あまりに小さな音だったため聞き間違えかと思ったけれど、すぐにもう一度、扉が叩かれる。


 私はベッドから起き上がって深呼吸をした。ぐるりと目玉を一周回して、今まで考えていたことなんてなかったかのように表情をつくる。大丈夫だ、私はまだ、立ち上がることができる。


 扉を開ける。廊下には、ノックをした手を上げたままのエドワードがいた。


「どうしたの」

「……話がある。入っていいか」


 本当は誰とも話したくなかった。けれど明日以降の予定の話であれば聞かなければならないと思い、私は彼を中に通した。


 私たちはソファに座った。夜半前だ。侍女にわざわざ紅茶を用意させるのも忍びなく、出せるものがないと詫びる。エドワードは聞いているのかいないのか分からないようにただ「ああ」と言った。


 扉を開けた時からずっとだ。エドワードはずっと何か考え事をしているようにぼんやりとしていて、私と目を合わせようとしない。話があると言ったくせに、切り出すこともない。言い難いことなのだろうか。


 ――ああ、そうか。


 気付いてしまうと、簡単だった。

 あんな話をした後だ。私に言いたいことなんて決まっている。


 ソファに肘を掛け、頬杖をついた。口を開くと、声よりも先に嘲笑が漏れた。


「失望した?」


 エドワードの顔を見たくなくて目を伏せた。頭の向こうから息を吸う音がする。それが言葉になる前に、私は畳みかける。


「私が領地を捨てるような人間で、失望したのでしょう。こんな人間のことは信用ができないと、そう言いに来たのでしょう」


 息が上がった。走った後みたいに心臓が、呼吸がうるさくて、こんなことを言いたいわけではないのに、止まらない。


「分かってる。分かってるわよ。私は何もできない。それどころか、間違ったことばかりしてしまう。馬鹿で、愚かで、怠惰で、責任感もない。分かってるわ。だから私のことが信じられないんでしょう。いいわ、信用なんてしなくていい。お父様とお母様の事故のことを調べたらあなたの前から消えるから、あなたにもシェルヴァ公国にも関わらないから、だから」

「俺は」


 びくりと体が跳ねた。


 エドワードの声は決して大きくなかった。それなのに、私にそれ以上話させはしないという威圧感があった。


 視線だけでエドワードを窺う。エドワードは、両手を組んで俯いたまま、静かに言った。


「俺は、……公国軍の内乱が起こったあの日からずっと、頭の中に黒い靄がかかっているみたいだった」


 唐突な話に、私は何も言えなくなる。


「靄のかかった視界では目の前のことしか見えなくて、だから公国のことだけを考えることができた。だが、一人になると靄の中から声がするんだ。父親を殺したのはお前だ。お前のせいで公国は地獄になる。お前のせいで、公国民の命は使い捨てられる。死んで詫びたいだと? そうやって一人で楽になるつもりか。くだらない。お前はそうやって」

「エド……」

「君が」


 エドワードが顔を上げた。虚ろに揺れる灰色の瞳が私を捉える。


「君が信じろと言ったあの日から、その声は段々と聞こえなくなっていった」


 悪夢に魘されるエドワードのことが頭に浮かんだ。ワインボトル。睡眠薬。すすり泣く声。

 次に思い出すのは、その翌日、私と一緒にいたいと言ったエドワードだ。エドワードはあの日以来、悪夢に魘されることがなくなったのだろうか。


 エドワードは先ほど私がしたのと同じように、浅く嘲笑を漏らした。


「声が聞こえなくなってから、初めて自分のしていたことを理解した。勝手な理由で君を罵って、取り返しのつかない傷をつけた。本当に、取り返しのつかないことを」

「それは……!」

「やめてくれ」


 エドワードは片手で私を止めた。償うことも、許されることも望んではいけない。叔父の言葉を思い出して、私は引き下がった。


「赦しを乞いにきたわけじゃない。俺が言いたかったのは、つまり、俺は君に取り返しのつかないことをしたのに、君は俺を見捨てることなく側にいてくれた。俺はそれだけで……それだけで、本当に……」


 エドワードの声が情けなく震えた。喉仏が上下して、小さく「隣に座ってもいいか」と呟く。私が頷くと、エドワードはゆっくりと立ちあがって机の周りを回り、私の隣に座った。触れているわけでもないのに、体の左側から彼の体温を感じる。


「今さらだと、思うよ」


 エドワードは小さく言った。けれど、灰色の瞳はまっすぐと私を突き刺した。


「それでも俺は、君がもし俺と同じように、誰かの声で圧し潰されそうな夜を過ごしているなら……君の隣にいさせてほしいと、そう言いたかったんだ」


 ――ああ、この人は今、私を一人にしないためにこうして来てくれたのか。


 胸の奥に生まれた熱が、喉に、鼻に這い上がって、零れ落ちた。たった一粒のはずだったのに、一度零れた涙は次々と溢れ、止まらなくなる。


 エドワードの手が遠慮がちに私の背中に回された。体の力を抜く。頬が彼の胸に触れた。温かくて、苦しかった。


「私、は」

「ああ」

「私は、間違って、間違いだらけで」

「ああ」


 エドワードの声が、耳元で響いた。


「俺たちは間違ってばかりだ」


 ――私は、決して許されないことをした。謝ることも、痛みを手放そうとすることすら許されないことをしてしまった。この罪は、一生私が抱えて生きていかなければならないものだ。


 それでも、抱えきれないこの痛みを、同じ罪を持つ者同士で分け合うことも許されないのだろうか。


 傲慢だと思う。分かっている。


 それでも、私の背を撫でるエドワードの手のひらがあまりにも優しくて、――私はエドワードの腕の中で、どうか今夜だけ、彼に寄りかかることが許されるようにと願っていた。

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