87. 罪悪 2
耳の奥が痛い。誰も言葉を発しない状況に耐えられなくて逃げ出したくなったけれど、少しでも体に力を入れると全てのバランスが崩れて倒れてしまいそうだった。
「……そうだ。お前は一番手放してはいけないものを手放した」
叔父の言葉に私は頷く。頷くことしかできない。
早く怒鳴ってほしい。叱りつけて、殴って、私をここから追い出してほしい。
叔父は私の願いを聞くことなく、あくまで冷静に続けた。
「この領地はお前にとって大切な故郷かもしれないが、俺にとっても同じだ。俺は、この領地を愛していた」
「……はい」
「だから兄夫婦の葬儀で帰ってきた時、お前がこの領地をランドルフ侯爵家に明け渡したと知って、お前を強く批判した」
「……申し訳、ありません」
「お前がこの地を去った後に、残った使用人に何があったのかは聞いた。お前も酷い目にあったのだろうが、それでも領地を手放すことだけはしてはいけなかった。兄夫婦の死体が腐ろうが、グレイ公爵家を見放そうが、だ」
「……はい、申し訳ありません」
「顔を上げなさい、オフィリア」
いつの間にか俯いていたようだ。私は恐るおそる顔をあげる。
叔父は相変わらず無表情だった。無表情のまま、言った。
「お前は、領地を手放すということがどういうことか理解していなかったんだろう」
心臓が、潰れそうになる。
父母の死。王妃様の拷問じみた拘束。そんなのは全部言い訳だ。叔父の言う通り、私は理解していなかった。
だって、『高貴な者には義務が伴う』のでしょう。貴族は領民たちの命を預かる者として、最善を尽くすものなのでしょう。高貴なランドルフがそれを知らないわけがない。ランドルフに預けた方が、私が管理するよりも良くなるに決まっている。
知らなかった。そんなことは綺麗事で、現実では他領の支配下に置かれた人たちがどのような目に遭うのか、知らなかった。少しでも貴族としての教育を受ければ学べたはずのことを、私は一つも知らなかった。
「十七は子どもだと許される年齢ではない。その程度のことも知らないということは、貴族として恥ずべきことだ。お前の両親は、お前にそんなことも教えていなかった」
私は父母のせいにしたくなくて首を横に振るけれど、叔父は許してはくれなかった。
「聞きなさい、オフィリア。兄は、……お前の父親は天才だった。教わらなくとも多くのことができたし、いつの間にか周りに人が集まっていた。だからお前も同じだと思っていたんだろう」
父は私に家庭教師をつけなかった。本を読むことを強要もしなかった。私の無礼さを哀れに思ったグレンダ様が礼儀を教えてくださっても、それ以上の教育をつけることはなかった。
シェルヴァ公国の戦争が始まった時、父はグレイ公爵家を助けることに専念するため、領地の管理を私に任せることにした。私は管理の仕方なんて教わっていなかったけれど、父は過去の資料を見て同じことをすればいいだけだと言った。そう、難しいことではないからと。
私の管理は杜撰で、間違いだらけで、結局それは、ランドルフ侯爵家に付け入られる隙になった。
「私は兄を妬んでいた。私が何時間もかけて学び、それでも何度も間違えてやっとできるようになったことを、兄はなんの苦労もせずにしてみせるんだ。領地に興味もないくせに。それなのに、父――お前の祖父は、兄を領主として選んだ。ああ、妬んでいたさ。兄が、嫌いだったよ。だから兄夫婦が亡くなりお前がランドルフに土地を明け渡したと知った時、お前を罵ったんだ。お前も兄と同じで領地に執着がないから簡単にこの土地を捨てられたんだろう、と。お前を兄と重ねていたんだと思う。お前と兄は別の人間なのに」
私の頭には、あの日の叔父の姿が蘇る。私を指さし、大声で怒鳴りつける。裏切り者。お前のせいで、領民たちは地獄を見ることになる。お前のせいだ、オフィリア・ランドルフ。
「私は間違っていた」
叔父は薄い唇を震わせた。
「本当はあの日、いち早くお前のもとに駆け付けてやるべきだったのだと、今は思う。一人だったお前に寄り添ってやれず、それどころか追い込んでしまって、申し訳なかった」
目の前が歪んだ。瞬きをすると一瞬だけ視界が晴れ、すぐにまた涙の膜で覆われる。
口を開くと、息が熱かった。私は両手で喉を押さえて、精一杯に声を出した。
「叔父様……申し訳、申し訳ありません、私……」
「ああ。お前もずっと、つらかっただろう」
叔父は私をなだめるように言った。
「ランドルフに領地を奪われてはしまったものの、こうして管理を任されることで踏みとどまれているのは、結局は兄のお陰でもあるんだ。兄の友人たちが抗議をしてくれたお陰だ。今では兄のことを尊敬している部分もある。兄が領地をどうでもいいと思っていたわけでもないことも、わかるよ。……領民たちが変わらず過ごせていると言うなら、よかったと思う」
領民たちの笑顔を思い出す。
私が手放した人たち。父の友人が手を貸してくれなかったら、叔父が誠実に領地を立て直してくれなかったら、領民たちの生活は変わってしまっていた。
「領民たちに、謝らせてください」
私は頭を下げた。けれど、叔父の返事はそれまでとは変わって厳しいものだった。
「駄目だ」
顔を上げる。叔父は、まっすぐと私を見返した。
「領民たちはお前がしたことを知らない。ただ兄夫婦が亡くなって、私が領主になっただけだと思っている。彼らを不安に思わせないために知らせていないんだ。領民たちには、領主に捨てられる可能性があることを考えさせたくない」
叔父がこの地を管理する者として決めたことなのだろう。領民たちの生活に不安を根付かせたくない。その気持ちは、今はもう、分かる。
けれど、私の罪はどう償えばいいのだろう。
「つらいだろう」
叔父の言葉は同情でもなく、共感でもなく、ましてや揶揄いでもなかった。ただ冷静に、私に言い聞かせる。
「その痛みはお前が抱えるべきものだ。償うことも、許されることも望んではいけない。ただ二度と、同じ過ちを繰り返さない。お前ができることはそれだけだ」
苦しい。私はずっと、苦しかった。苦しくて、逃げ出したくて、そうして、許されたかった。私はきっと、私が見捨てた人たちに許してほしかったのだ。
とことん私は、甘えていた。
叔父を見返す。重い瞼の奥、濁った瞳には、ランドルフの刃が喉元に突き刺さった状態でも、この土地を守り続けてきた男の覚悟があった。私も叔父のようになりたいと思った。
本当は今でも苦しくて、逃げ出したい。どうか、許してほしい。こんな痛み、すぐにでも手放してしまいたい。けれど、それではいけないんだ。私は、この痛みを一人で抱えて生きなければならない。――抱えていく覚悟を、決めなければならない。




