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86. 罪悪 1

 ——あの日の私は、父母がいい話を持って帰ってくることを疑っていなかった。


 だって、お父様はどんな人とでも仲良くなれるんだもの。きっと国王陛下だって、お父様と直接話せばすぐにお父様を好きになるはずよ。お父様がシェルヴァ公国を助けてくださいと頼めば、きっと国王陛下はお父様の言うことを聞いてくれる。





「お嬢様、旦那様と奥様が……!」


 執事長の青白い顔を目の前にした時でさえ、私はまだその深刻さに気付かなかった。どうしたの、お父様とお母様がどうかした? 緊張感のないまま屋敷を出ると、そこには美しい女性が立っていた。


 ヴェネッサ王妃だ。私は田舎者ではあったけれど、王妃陛下の肖像画を見たことがあったからすぐに分かった。


 どうしてヴェネッサ王妃がいらしてるの? こんなところでお待たせしていないで、応接室にご案内しなさいよ。のんきな私に向けて何かが運ばれてくる。土嚢袋だ、と思った。大きな土嚢袋が二つ。これは一体、何なんだろう。


 そうしてそれが目の前に置かれた瞬間、頭より先に体が気付いた。どっと心臓が強く鳴って、背中に汗が伝う。違う、そんなわけがない。お父様とお母様が、こんなに汚いわけがない。


「ご両親は国王陛下を訪ねる途中で不幸な事故に遭われました」


 ハープのような澄んだ声。私は声の主の方を見た。ヴェネッサ王妃は、聖母の彫刻をそのまま切り取ったような憐みの表情を浮かべていた。完璧な、作り物の表情だった。


 ああ、この女だ。この女が、両親を殺したんだ。何故だか、分かった。


 体の奥で、炎が燃える。一瞬で限界を迎えた私の怒りは、私の手を、足を動かす。殺してやる。お前を、父と母をこんな目に合わせたお前を、殺してやる。


 ガクンと視界が下がって、体に痛みが走った。ヴェネッサ王妃の護衛に取り押さえられたのだ。頬が地面に押し付けられる。離せ、クソ野郎。お前がやったんだろう、殺してやる、絶対に殺してやる。


 尚も叫び続ける私の視界に、一つの汚れもついていない靴のつま先が映った。


「痛ましい事故でした」

「うるさい! お前がお父様とお母様を……っ!」

「痛ましい事故でした」


 何を叫んでも同じ言葉が返ってきた。痛ましい事故でした。痛ましい事故でした。それを認めなければ会話が進まないとでも言うように、繰り返される。ご両親が亡くなったのは、痛ましい事故でした。


 叫ぶたびに、口の中に砂が入ってきた。痛ましい事故でした。うるさい、黙れ。痛ましい事故でした。

 砂に唾液が絡まり、ぬるりとした塊になる。おえ。えずいて声を出すことのできなくなった隙に、ヴェネッサ王妃は言った。


「応接室へ案内してくださるかしら」


 私を押さえつけていた護衛たちが、今度は私の身体を持ち上げ、無理矢理に立たせた。両腕を掴み、私を引き摺りながら屋敷の中に入っていく。私が手足を精一杯にばたつかせても、抵抗にすらならなかった。


 応接室に入った途端、私は勢いよくソファに投げつけられた。痛みを感じる暇もなく、護衛たちが私の身体を起こす。護衛たちは私の両隣に座り、私の腕を背もたれに押し付けた。


 後からゆっくりと入ってきたヴェネッサ王妃は、私の向かいに優雅に座った。使用人たちは動揺しながらも、ヴェネッサ王妃に紅茶を出した。ヴェネッサ王妃は、それに手を付けずに言った。


「他にご家族はいないのかしら」


 私が答えずにいると、右の護衛が使用人を睨んだ。使用人は怯えながら答える。この屋敷には、お嬢様しかいらっしゃいません。


「そう」


 ヴェネッサ王妃はまたあの、完璧な表情を向ける。


「お二人が亡くなられて、あなた一人でこの地を管理していくのは大変でしょう」

「お前に何の関係がある」

「あなた一人でこの地を管理していくのは大変でしょう」


 また、だ。また、意味のない繰り返しが始まる。私はうんざりして、答えてしまう。


「……今までだって父母の代わりに管理をしていた」

「そう」


 ヴェネッサ王妃は満足気に頷いた。


「それで税の申告に誤りばかりだったのね」


 いつの間にいたのだろう。補佐官のような男が資料を取り出し、机に置いた。資料を読めというように、私の頭が護衛たちによって押さえつけられる。その資料にはここ一年で私が王宮に申告した税の間違いが事細かに記されていた。


「あなた一人でこの地を管理していくのは大変でしょう」


 私が黙ると、ヴェネッサ王妃は話を進めた。


「これも何かの縁だと思っておりますの」


 何の話だと、声にする前に返ってきた。


「ご両親は国王陛下を訪ねる途中で不幸な事故に遭われました。私はこの国の王妃として、せめてもの責任にあなたをランドルフ侯爵家の養子に迎えようと思います」


 なにを、言っているのだ。この女は、何を。


「何が、目的なんですか」


 あまりにも突拍子がなく、理解ができない提案に、恐怖を覚えた。喉が震え、弱気になる。


「これも何かの縁だと思っておりますの」

「縁、だなんて、王妃様が、殺したのでしょう」

「痛ましい事故でした」

「事故、なんか」


 ヴェネッサ王妃はそこで初めて表情を崩した。片方の口の端だけをゆっくりと上げて、鼻で笑う。


「よくお考えなさい。あなたには一人で領地を管理できるほどの能力があるかしら」

「なに、を」


 ヴェネッサ王妃はそれから、私の不出来を詰る言葉を並べ始めた。


 私が着いた時にあなたはまともな挨拶もできなかったでしょう。ここまで無礼な出迎えを受けたのは初めてよ。それに、いきなり殴りかかってくるなんてひどく野蛮だこと。森の獣が人間の振りをしているのかと思いましてよ。それにしても、二つ足の獣なんていたかしら。かろうじて人の言葉は話せるようね。ひどく訛った、だらしのない言葉ですけれど。


 ほら、この書類を御覧なさい。簡単な計算も身につかない程怠惰に過ごしていたのでしょう。貴族の義務も知らないのかしら。獣に貴族としてあれなんて、酷いことを言ってしまったわね。


 罵倒は続いていく。初めは言い返していたけれど、資料の不備を指摘し始められると、それが事実であるだけに反論も出来ず、私はただヴェネッサ王妃の罵倒を聞くだけになる。


 眩暈がしはじめた。延々と続く罵倒のせいだけではない。もう何時間も、水を飲んでいない。ヴェネッサ王妃は自身の使用人に用意させた紅茶を飲み、食事をし、また私を罵倒した。


 ハリディ家の使用人がほとんど泣きながら、お嬢様を解放してください、せめてお水を飲ませてくださいと言った。その声は私以外の誰にも聞こえていないようだった。一人として視線を向けることもなかった。


 ある時を境に、私を責める声が増え始めた。ヴェネッサ王妃のものだけではない、高低様々な声が頭の中に響いて私を詰る。


 手足が痺れてきた。両腕の掴まれた箇所から先の感覚がなくなっていく。冷たい。体が冷たかった。


 いつの間にか夜になって、また、朝が来た。

 朝食を取り終わったヴェネッサ王妃が言った。


「ご両親のご遺体は、そろそろ腐り始める頃かしら」


 殆ど意識のなかった頭が殴られたように動く。もしかして、父母の遺体はあのまま屋敷の前に放置されているのか。立ち上がろうとするが、両腕は掴まれたままで、身動き一つとることができなかった。


「なんで、こんなことをされるのですか」


 私は掠れた声で言った。渇ききった唇の皮がぷつりと破けたのを感じた。

 ヴェネッサ王妃は笑った。


「あなたをランドルフ侯爵家の養子に迎えようと思います」


 そうして、二枚の契約書を取り出す。


 一枚目は、王室が私をハリディ家の当主代理に指名した書類だった。正式な当主が決まるまでは私が代理として権限を持つという内容だ。

 二枚目は、私がランドルフ侯爵家へ養子入りするための契約書だ。養子入りした後は、私の持つ権限はランドルフ侯爵家へ移行すると記されている。


「これでは、この土地はランドルフ侯爵家のものになってしまいます」


 ヴェネッサ王妃はまだ考える頭があったのかと、せせら笑う。


「何か問題があるかしら」

「ここは、ハリディ家の領地です」

「安心なさい。ランドルフ侯爵家はあなたよりもうまく管理するわ」

「でも」


 王妃様はまた、私の管理がいかに杜撰なものだったかを並べ立てた。あなたのように学がなく、愚かで、間違いばかりする人に領地の管理ができるとお思い? 領民たちの血税をこうもぞんざいに扱って、よくも偉そうに言えたこと。あなたは今まで、あなたの力で何かを成したことはあるのかしら。ないでしょう、あなたには何もできない。


 私はまた、頭が痛くなる。

 日が高くなっていく中、放置された両親の遺体のことを考える。泥と血で汚れていた。早く綺麗にしてあげたい。でも、私はそんなことすらできない。


 そもそも、私にできることなんて何一つないのだ。父母のように領地を管理することも出来なかった。間違いだらけで、領民の税を無駄にした。私にできることは、なにもない。


「あなたをランドルフ侯爵家の養子に迎えようと思います」


 私は羽虫のような声で聞く。


「私が、養子になると、どうなるのですか」


 ヴァネッサ王妃は美しい顔で微笑んだ。


「あなたが養子になるのであれば、ご両親の悲願だったグレイ公爵領への支援も惜しみませんわ。ご両親の代わりにあなたがシェルヴァ公国を助けることになるでしょう」


 戦場にいるエドワードの顔が頭に浮かんだ。私は彼のために何もできなかった。それなのに、私がこの書類にサインをするだけで、彼を助けられるのだろうか。


 それは、初めて見えた希望だった。


 私は無力だった。礼儀もできていない、それどころか、人間の言葉もうまく話せない。領地のためだとしていた仕事は、すべて間違っていた。私にできることは何もない。むしろ、私がやることは全て裏目に出る。私は、怠惰で馬鹿で愚かな獣だから。


 それなのに、ここにサインをするだけでできることがあるのだろうか。


「サインを」


 王妃様の細くしなやかな指先が、署名欄をなぞった。その空白が輝いて見えた。ペンを持つ。感覚のなくなった指先を動かす。ペン先が紙を引っ掻いて、インクが滲んだ。オフィリア・ハリディ。私の名前が、刻まれる。


「義姉妹になるのですもの、仲良くしましょう」


 ヴェネッサ王妃がどんな表情でそう言ったのかは分からない。けれども、仲良くなんて吐きながらも私を抱きしめることは疎か、手を差し出すことすらしなかった。別に良かった。もう、どうでもよかった。早く、眠りたかった。





 ――こうして私は、ハリディ男爵領をランドルフ侯爵家に明け渡した。

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