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85. 領民たち

 私たちは領内を歩いて帰ることにした。時間が余っていたというのもあったけれど、領民たちの暮らしを見ておかなければならないと思ったからだ。


 街に入る前に馬車を降りる。はじめはぬかるんだ土の上を歩いていたが、そのうち舗装された道ができていく。

 そろそろ仕事も終わる頃だからだろう。少しずつ人も増えていった。街並みに活気が溢れていく。


 反対に、私の気持ちは沈んでいった。騒がしい声を、そのどれも理解しないよう意識をぼやかす。焦点の合わない視界が歪む。


「大丈夫か」


 彼の腕を掴む力が強くなってしまっていたのだろうか。私の半歩先を歩いていたエドワードは足を止め、怪訝そうに私の顔を覗き込んだ。私の意識は、引き戻される。


「……ごめんなさい。力が強かったかしら」

「いや……気分が悪いなら、今からでも馬車で」

「オフィリアお嬢様!?」


 私たちの会話は高い声に遮られた。


 聞き覚えのある女性の声だった。私の心臓は一度止まって、その一瞬の遅れを取り戻そうとするように鼓動する。額には嫌な汗が浮かんだ。


「お嬢様……!」

「おい、オフィリア様がいるぞ!」


 いつの間にか私の周りには人が集まってきていて、私は逃げ場を失ってしまう。恐怖で、足が、震えた。見つかってしまった。


「お嬢様、生きていらしたんですね、ああ……っ!」


 誰かが漏らした。続くように、元気にしているか、痩せてしまったのではないか、大人になっていて気付かなかった、と声が上がる。


 私は彼らの問いかけを聞きながら、うまく働かない頭で、それでも一番その場に合った台詞をひねり出す。


「……ありがとう。みんなは無事、かしら」


 どの口が、と、言う人はいなかった。


「ええ! もちろんです! 今の領主様とは最初は軋轢もありましたが、思ったよりも寄り添ってくださるお方で、変わりなく過ごしていますよ」

「……そう、なの」


 領主様、呼んでいるのは叔父のことだろうか。実際は領主ではないのだけれど、領民たちには細かな違いは分からないのかもしれない。


「……よかったわ」


 今度は本心からの言葉だった。領民たちの暮らしは変わっていないようだ。よかった。……本当に、よかった。


 領民たちはそれからも今までどこにいたのか、何日ここにいるのかなど次々に質問を投げかけてきたけれど、エドワードが軽く往なしてくれて、私たちはいつの間にか迎えに来ていた馬車に戻った。


 扉が閉められ、馬車が進む。人のざわめきが聞こえなくなって、私はやっと息を吐いた。


「よか……っ、た……、皆が、無事で……」


 喉の震えはすぐに身体中に広がった。しゃっくりのように胸が上下する。

 私の前に座るエドワードは、小さく「ああ」と返すだけで、それ以上何も言わないでいてくれた。


***


 屋敷に戻ると、執事長は再度私たちを応接室に通した。


 数分後、叔父が現れた。両親の葬儀以来初めて会う叔父は、少しふくよかになったように見える。けれど、私を見る時のどんよりと濁った目はあの日と同じだった。


「グレイ公爵閣下、夫人。遠いところをよくいらっしゃいました」


 叔父はにこりとも笑わず言った。抑揚のない声と丁寧な言葉遣いがちぐはぐに感じる。


「突然の訪問にも拘わらず、ご対応くださり感謝いたします」


 エドワードが、こちらもまた丁寧に返す。


「御調整に無理を掛けてしまったのではありませんか」

「私はただの管理人ですから、外での予定はあまりないのですよ。お二人は先ほど領内を見てこられたのでしょう。いかがでしたか」

「ええ、以前と変わらず――」


 二人の会話が続くほどに、その声は遠ざかっていった。ここに来てからずっとだ。私だけ切り離された世界にいるように感じる。


「――公爵夫人」


 叔父が私を呼んだ。私の世界を覆っていた膜がゆっくりと溶けていって、応接室に戻ってくる。

 叔父は訝しげに私を睨んでいた。


「夫人はいかがでしたか。久しぶりの故郷でしょう」


 話さなければ、と思う。けれど、声が出ない。それでもと口を開けると、先ほど溶けた膜がどろりと私の口内に流れ込んだ。喉に両手を当てて、どうにか話そうとしても意味がなかった。


「オフィリア」


 叔父が大きくため息をついた。私を公爵夫人として扱うのではなく、姪として話しかける。


「少しは落ち着いたらどうだ」


 ひどく呆れていた。叔父は、私の浅ましさを見抜いたのかもしれない。


 膜だなんだと言ってみたけれど、結局私は、この期に及んで自分の罪から逃れようとしているだけだった。自分を切り離して、閉じこもって、黙っていれば逃れられるとさえ思っていたのかもしれない。本当に、浅ましい。心底嫌になる。


 瞼を閉じた。父母の墓を、街の人を思い出す。向き合うためにここに来たのではないのか。言い聞かせて、私の邪魔をする膜を追い出すように、深く息を吐いた。


「……申し訳ありません、叔父様」

「話せるか」

「……はい」


 叔父は私をじっとりと見つめた。


「領地はどうだった」

「……皆、変わりなく過ごしている、と」

「そうか」

「……申し訳、ありません」


 私は叔父から逃げるように頭を下げた。これ以上、叔父の視線に耐えられそうになかった。


「お前は今、自分が何に対して謝っているのか分かっているのか」

「……は、い」


 私の返事に、叔父は言葉を続けることはなかった。私に言わせようとしているのだろう。私が犯した罪を、私自身に告白させようとしているのだ。


 頭が痛い。何かで締め付けられているみたいにズキズキと脈動する。めまいがして、倒れそうだ。倒れると、楽になれるのに。


 そう思った時、背中に温かいものが触れた。驚いてびくりと肩を振るわせると、その手は一瞬私から離れて、だけどすぐにまた私に触れ、背中をぽんぽんと二度、軽く叩いた。


 エドワードだ。エドワードは、私を慰めようとしてくれているのだろうか。――私は慰めてもらえるような人ではないのに?


 罪悪感が私の体の中をいっぱいに満たした。喘ぐように顎を上げると、叔父と目があった。似ていると思ったことはなかったのに、なぜだか今、叔父に父の面影が重なった。叔父の濁った瞳の奥には、醜い私が映っていた。


 ――お父様、お母様、ごめんなさい。


 私は体を満たす罪悪感を吐き出すように言った。


「私、が、……領地を、手放した……か、ら」

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