83. 向き合わなければならないこと
私を乗せる馬車はいつも乱暴に走る。それでも夜間は周囲を気遣ってか幾分か大人しく、時折ガタンと大きく揺れるくらいで収まっていた。
揺れのない間だけ考え事ができた。
私が一番向き合わなければいけないこと。ずっと、逃げてきたこと。けれど、そのことについて考え始めるといつも頭が痺れているみたいにぼやけて、目の前が霞んでいく。
ガタン。馬車が揺れる。ぼんやりとしていたせいか体勢が崩れ、シートに手をついた。顔を上げると、窓の奥に夜空が見えた。
——俺は逃げ出したんだ。俺が逃げたところで、死ぬべき人が増えただけだった。
カーティス王子は最後まで涙を流さなかった。弱音というよりも懺悔に近かったのかもしれない。一度逃げ出してしまった彼が、もう一度向き合うために必要な吐露だったのだろう。
私は。私は、自分が捨てた場所にもう一度、向き合えるのだろうか。また、視界が霞む。
ガタン。馬車は一層強く揺れ、そして止まった。
一瞬の静寂の後、扉が開く。外からはいつも通り不機嫌を隠しもしない見張りが私に手を差し伸べている。
エドワードもそうだった。この人たちはどうして私に不満を抱きながらも、こうして最低限のエスコートをするのだろう。不思議に思いながら、見張りの手を取って馬車を降りる。私よりも先に見張りが手を離した。
ふと、頭に過る。子どもの頃、たった数回だけれど、この男の隣で弓を習った日があった。
この男は子どもの頃から無口だった。私もエドワードもおしゃべりな方だったから、ある日二人でお前はどうして喋らないのかと問い詰めたのだ。
この男はしばらく黙った後、考えたことが言葉になるのに時間がかかるのだと言った。考えたことが言葉になるって何? 言葉で考えるんじゃないの? そう聞く私たちに、男はなんと説明していいか分からなかったのか、困った顔をしてまた黙った。
夕方、私たちの様子を見に来たこの男の父親——当時シェルヴァ公国の騎士団長をしていた男に、同じようになんでなんでと聞き詰めた。騎士団長は大きな口を開けて、説明するでもなく「そういうやつなんだ」と笑った。
そうだ、この男もランドルフの謀った内乱で父親を殺されたのだ。
突然湧いた実感に、しん、と私の鼓膜が音を拾わなくなる。だからこの男は、私を憎み、主人であるエドワードにも強く出るのだろうか。
ああ、嫌だな。ランドルフの謀に巻き込まれた人たちのことを考えるのは、それが非のない人であればあるほど、ひどく苦痛だ。自分の愚かさを思い出してしまう。
逃げ出したい。頭に浮かぶ。どこか遠くに逃げ出して、全部を忘れたい。もう、十分ではないか。私も十分傷ついた。だから、許してほしい。
——でもまだ、足りない。
「エ、ドワードは」
夜の真っ暗な空間に、ぽかりと浮かぶような声が出た。私は足を止めて、後ろを振り向く。暗闇で光る見張りの瞳孔に怯むが、面に表さないようきゅっと眉間に力を入れた。
「エドワードはこの時間、まだ執務室にいるかしら」
見張りはたっぷり五秒は黙ったあと、「おそらく」とだけ言った。
***
もう夜も更け切っているというのに、エドワードはデスクに向かっていた。彼の手元を照らす明かりはいつも心許なく、これでは読み間違えや書き間違えがでてしまうのではないだろうか。心配しながらも、声を掛ける。
「エドワード、今話せる?」
「……ああ」
タイミングが悪かったのか、エドワードは返事をした後も少しだけペンを走らせてから顔を上げた。立ち上がり、ソファに座りなおす。
エドワードの表情からは疲労が見て取れた。通常業務に加えて、独立に向けての調整や証拠集めなど、休む暇もあまりないのだろう。
あの睡眠薬はまだ飲んでいるのだろうか。あの夜、悪夢に魘されていたエドワードを思い出す。あの薬は、眠れないよりはマシだけれど、それでも眠れているとは言い難い。
エドワードの上に伸し掛かる、眠れないほどの後悔と重圧について考える。それでも彼は、その重圧から逃げることは許されない。彼が逃げれば、公国は命が使い捨てられる土地になる。
「故郷に、戻ってみようと思うの」
押し出すように声が出た。怖気づく前に、もう一度口を開く。
「父と母が殺された時のことを、もう一度追ってみたいの」
エドワードは一瞬だけ目を見開いて、すぐにいつもの無表情をつくった。
「あの場所は今も君の叔父が管理しているのか」
「……ええ」
父母が殺され、ハリディ男爵領はランドルフのものとなった。しかし、父の友人たちが抗議の声を上げた結果、ランドルフの領地であることは変わらないままに、私の叔父が管理をするということで手打ちとなったのだ。
裏切り者。叔父の声が響く。どうしてお前なんかが。私を責める声は次々と増えていく。親不孝者。馬鹿で、愚かな娘。お前のせいだ、お前のせいで——
「オフィリア」
はっと顔を上げる。息が浅くなっていることに気付いて、私は両手で口元を覆った。意識的に息を吸い込み、深く吐く。何度か繰り返すうちに、体が元に戻っていく。
寒いと思った。嫌な汗を掻いていたみたいだ。肩を抱いて震える私に、エドワードはいつの間に取ってきたのかブランケットを掛けてくれた。
「……ありがとう」
「ああ」
エドワードは向かいに座り直して言った。
「俺も同行しよう」
私は縋るように、彼を見つめる。
「……いいの? あなた、忙しいんじゃないかしら」
「問題ない。証拠探しは最重要事項でもある」
「……ありがとう」
私は分かりやすくほっとした。
つい先日まで私をぞんざいに扱っていたエドワードを心強いと思うほどに、一人で向き合う勇気がなかったのだ。
「日程は俺の方で決める。数日以内に出発できるよう調整するつもりだから、そのつもりで準備しておいてくれ」
「ええ、ありがとう」
私たちはブランケットを畳み、立ち上がろうと前傾姿勢になった。
「傷は」
「え?」
不意に声が聞こえ、私は中途半端な姿勢のままエドワードの方を向いた。エドワードの眉根が二、三度引き攣るように動き、それが終わると小さく呟いた。
「……傷の調子はどうだ。薬は、きちんと塗っているか」
傷? 私、怪我なんてしたかしら。そうしてすぐに思い当たる。最近のことではない、私が王妃様につけられた傷痕のことだと。
「ええ……シャーロットにもらった薬なら、毎日塗っていますけど」
「……そうか」
エドワードはそれだけ言って立ち上がり、デスクに戻った。
私は少し遅れて立ち上がると、おやすみなさいとだけ言って執務室を後にする。
廊下は室内よりも寒かった。冷たくなった空気が皮膚から染み込んできて、私は両肩を抱く。ブランケットを持ってくればよかった。たった数秒前まで感じていた、あの柔らかなぬくもりを恋しく思った。




