82. 逃げてきた人
この男と最後に会った夜を思い出す。ランドルフのパーティで、私が妙な薬を飲まされたあの夜だ。あれ以降、カーティス王子を見かけても知らぬ振りをしていたし、彼からも話し掛けられることはなかった。
その方がお互いにとって都合がよかったのだ。私は普通の状態ではなかったし、彼もまたその熱に中てられて、言わなくていいことを言っていた。
それなのにどうして、わざわざこんなところまで出てきて話しかけてくるのだろう。
きまりが悪く思う私とは違い、カーティス王子はあの夜以前と変わらぬように言った。
「あれから夫婦仲はうまくいった?」
「……お陰様で」
「そうか、残念だ」
聞き間違えだろうか。そう流そうとしたのに、カーティス王子はこの話題を続けたいようだった。
「夫君はいい環境で育ったんだろうな。冷酷な振りをしてみたが、結局は君を捨てることができなかった」
「……どうでしょう」
「君も甘すぎる。他の男のものになっても構わないと言った夫君を簡単に許すなんて。今後、同じことが繰り返されないとは限らないだろう」
「何を仰りたいのですか」
知ったように言う口振りに苛立った。咎めたくて彼を睨みつけると、カーティス王子は受け流すように笑った。
「負け惜しみだ。……あの日、夫君が帰ってくる前に君を連れ去ればよかった」
攻撃的だったそれまでと違って急に色っぽい声を出すから、動揺して毒気が抜けてしまう。
「……どうして、そんなことを」
「君を好ましく思っていると言っただろう。君を口説くことにそれ以上の理由がいるのか」
カーティス王子は私に近づく。気付けば手の届く距離にいて、ふわりとバニラが香った。
「俺にはもう、少しも可能性がない?」
彼の右手が私に伸ばされる。指先が頬に触れた。避けようと思えば避けれたはずなのに、私はそれをしなかった。頭の中が違和感に支配されて、動くことができなかったのだ。
おかしい、何か、彼らしくない気がする。彼の魅力をわざとらしく強調して相手を誘惑するような素振り。
この姿は、そうだ——私が彼の本性を言い当てる前と似ている。
「……何か、あったのですか」
カーティス王子の指先がぴくりと震えた。図星のようだ。であれば、そうなったかは想像がつく。この男がおかしな行動をとる理由は一つしかない。
「まさか、殿下の御父上が……っ」
「違う」
では何故と、続けられる程私は恥知らずでもなかった。黙って続きを待つ。
カーティス王子は余計な反応をしてしまったと思ったのかもしれない。苛立ったように眉に皺がより、そうしてすぐに、何かを諦めたような顔をした。
指先が私の頬から離れた。肩から肘、手首と、順に力が抜けていく彼の腕が、ゆっくりと落ちていく。私は何故だか目を離してはいけない気がして、その様子を眺めていた。腕がまっすぐと下りきった時、カーティス王子は言った。
「死んだのは父王ではない。弟だ」
顔を上げる。無表情の男の唇だけが動いた。
「俺の兄弟が、末の弟を殺した」
「でも、殿下のご兄弟は」
「口も聞けない男と、立つこともできない男なのに?」
吐き捨てるように、笑う。
「あれは、——兄弟たちの障害は、自分を守るための嘘だ」
地獄の国で、生き延びるために嘘をつく。考えられない話ではない。
カーティス王子は私から顔を逸らしたかと思うと、そのまま手すりに両肘をついて寄り掛かった。私は彼の話を聞くために、同じような体勢で彼の隣に並んだ。
こうしていると、向き合っていた時よりも話しやすいように感じる。
「君はいつか、王位が大切かと聞いたな」
カーティス王子が言った。
「あの国で王になりたい者などいない。俺たちは誰も、誰かを殺してまで王になりたいだなんて思っていなかった」
「……殿下だけでなく、三人のご兄弟も皆同じ考えだったのですか」
「ああ。ただ、周りの者たちは違っていた」
娘が産んだ子が王になれば、外戚として実権を握ることができる。王妃たち、王子たちよりもむしろ、その周囲の者たちが権力争いに精力的であるというのは珍しいことではない。
「以前君に、結婚相手を探しにこの国に来たと言っただろう」
「……ええ」
そう言ったのは『クリス』だったけれど。指摘する意味もないので、黙って頷く。
「あれも嘘ではないが、一番の理由ではない。父王の容態が悪化し、後継者争いが苛烈を極めていく中、俺たち兄弟はこれ以上くだらない争いを長引かせたくなかった。そこで出した結論が——」
カーティス王子は口を噤んだ。その沈黙に忌まわしい何かを感じ取って、肌の表面がぞわりと粟立つ。私の勘は、当たっていた。
「——強硬派に擁立されている弟を殺した俺が王位に就く、というものだった」
なんだ、それは。
視界がぐらりと揺れた。想像を超える悍ましいさが、毒のように体を巡っていく。
「おかしな話だろう。殺し合いを止めるために人を殺すなんて、おかしな話なんだ。だが、俺以外はそう思わなかった。末の弟は自分が殺されるそのシナリオを、国のためだと受け入れた。たった十歳の子どもが、だ」
「……酷い」
「ああ。俺はどうしても受け入れられなかった。もっといい案があるはずだ、時間をくれと頼んだが、いい案だなんて、俺が生まれる前から皆が考えてきたことだ。今さら俺が考えたところで浮かぶはずもない」
分厚い生地からミルフィユが出来ないように、彼の積み重ねも足りなかったのだろうか。考えて、すぐに無神経だと振り払う。彼もきっと、ずっと考えてきたはずだ。何を積み重ねてもうまくいかないことが、この世にはたくさんある。
「だから俺は逃げ出したんだ。弟を——国のために自らの命を差し出すことを覚悟した弟を殺すことに耐えられなかった。俺がいなければそんな計画は頓挫すると思っていたんだが、どうやら兄弟たちは俺がいなくても進むようシナリオを変えたらしい」
カーティス王子は演説をするようにわざとらしく片手を上げた。
「新しいシナリオはこうだ。長兄たちが反乱を起こし、末の弟を殺す。そこで俺が帰国し、長兄たちを国賊として屠る。俺は国を守った英雄として王位に就く——なんとも残忍なシナリオだが、彼らは既にそれを始めてしまっている。俺が逃げたところで、死ぬべき人が増えただけだった」
乾いた笑い。嘆息にも聞こえた。
嘆きたくもなる。この男は今から、兄弟を殺すために国へ帰るのだ。
どれだけ命を狙われても一人として仕返すことのなかったこの男の手が、兄弟の血で塗れてしまう。
カーティス王子はそこまで話すと、私が隣にいたことを思い出したようにこちらを向いた。
「こんなことを聞かせて悪かった。君を口説こうとしたのも……何故だろうな。この国を発つ前に、君に嫌われたかったのかもしれない。いや、それも違う気がする。よく、分からない」
私は首を横に振った。
「……今さらあれくらいで殿下のことを嫌ったりはしません」
「相変わらず、愚か者だな」
「ええ」
私は、私を騙し、盾にした男と、友人になるような愚か者なのだ。
カーティス王子はああ、と、相槌なのか、ただの呻きなのか分からない声を出した。そうしてもう一度前を向いて、ぼそりとひとりごとのように呟いた。
「君の同情が心地よかった」
薄っぺらい同情だ。そんなことを殊更に覚えている程に、彼に同情の言葉を掛けてやる人はいなかったのだろうか。自分のことではないのに、酷く寂しくなる。
私たちは何を話すでもなく、しばらく横並びのままいた。彼のことや、彼の兄弟のことを思っては胸が潰れそうになったけれど、話を聞いただけの私がそれ以上何かを思うことも烏滸がましく、何も考えないようにただ夜空に浮かぶ星を数えていた。
「そろそろ戻るとしよう」
カーティス王子は手すりから離れ、姿勢を正した。私も同じようにして、彼に向き直る。彼の表情は穏やかで、ああ、覚悟を決めたのだなと思った。彼は、兄弟の描いたシナリオに乗ることを決めたのだ。
胸が詰まる。余計なことを言うなと、諌める声がする。私はそれを無視して、口を開いた。
「かわいそうでは、ありません」
エメラルドの瞳が、わずか揺れた。
「殿下はお強い方です。病を騙るでもなく、人を殺すでもなく、一人で戦ってこられた方です。逃げたんじゃない。人を殺さないで済む方法を考えることを逃げだなんて思いません。何がかわいそうなものですか。殿下は、強くて、優しい方です」
知ったようにと、自分を嘲笑った。私はこの数ヶ月しか、彼を知らない。それでも——決意を固め、国へ帰る友人に向ける言葉が同情であってはならないと思った。
カーティス王子はふっと笑った。両の眉が情けなく下がる。
「俺が兄弟を殺しても、同じことを言ってくれるか」
私は頷く。「そうか」と、返ってくる。私たちの会話はそこで終わった。
カーティス王子は丁寧に礼をして、会場に戻っていった。
一人残されたバルコニーで、私はぼんやりと空を見上げた。
イグラドへ続く星空は、いつか彼が言っていたサファイアの海を思い出させた。




