81. 逃げてきたこと
先日、侍女たちに『賢女エリーゼ、あるいは恋の薬は理知』の元となった小説の話をしてから、ふとした時に小説の一節が浮かぶようになった。
今がまさにそうだ。教鞭をパシンと鳴らしながら、嗄れた声の女性が私に言い聞かせるように言う。
——皆様はミルフィユというお菓子をご存知でしょうか。千を超える生地が積み重なったそのお菓子は、何度も丁寧に織り込まれることで羽のように軽く、しかし濃厚な味わいがでるのです。ただの一度だけ、分厚くまとめた生地を焼くのでは、あの奥深き芸術は生まれません。
私たちの営みも同じでございます。ある日ふと思い立って新しい試みをしたとして、何かが為されることはありません。大切なのは日々の積み重ね。生地を薄く重ねるように日々を折り重ねていくことで、私たちの営みも美しく、上品でありながら濃厚に積み重なっていくのです。
つまり、このマダムはこう言いたいのだ。ランドルフの謀略の証拠や、せめて何か情報をと思って王室支持派の家門が多く参加するパーティに来たところで、今までそういったものを得るための努力をしてこなかった私がいきなり有力情報を得られるわけがない、と。
仰る通りだわ、と項垂れる。一方で、であればたった一日の努力が実らぬことを嘆く必要もないだろう。
私は会場での情報収集は諦めて、バルコニーに向かった。
空を見上げる。シーズン開始時期に、一年で一番星が綺麗に見える日だと星祭りが開催されていたけれど、今日の夜空の方が美しいように思える。
私は瞬く星を見ながら、すっかり馴染みのなくなってしまった笛を吹いた。数秒後、空から私の情報屋が降ってくる。
「久しぶり、公妃様」
ヒューの口の両端を引っ張るような笑顔に肩の力が抜けて、同時に自分がひどく緊張していたことに気づいた。初めてこの笛を使った時のようにヒューを疑っていたわけではないけれど、それでも来てくれなかったらどうしようと不安だったのだと思う。
「会えてよかった。本当に、すごく久しぶりな気がするわ」
「ああ、でも実際はそう日も経っていない」
最後に会ったのはアンカーソン伯爵家でのパーティだったろうか。ヒューの言う通り、確かにたった数日前なのだけれど、それでもすごく遠い昔のような感じがした。
「それで、公妃様。苦手な奴らばかりいるパーティにまで来たんだ。何かいい情報は得られたか?」
揶揄うヒューに、私は肩をすくめて答えた。
「全く」
「だろうな」
駄目でもともとだったのだ。そもそも私は、王室支持派に見下されているのだ、と、そこまで考えて、会場でのことを思い出す。
「ああ、でも、なんだか周りの人たちの反応が以前と違っていたわ」
いつも私を貶めるために話題を振る人たちが、今日に限っては嫌味の一つも言わなかったのだ。
「私、如何にも何かを探っているような怪しい雰囲気を出していたのかしら。もしかして、警戒されてしまった?」
「さあな。ただ認められただけなんじゃないか? あんたと夫の関係が修復したから」
「なにそれ」
思わず眉を顰めたけれど、案外ヒューの言う通りかもしれない。
エドワードと私の関係が以前のような冷たいものではない、ということが噂になっているのは知っていた。それもランドルフの策略なのか、ただ単に、エドワードが私を王妃様の離宮から連れ出したり、アンカーソン伯爵家のパーティに参加させたりしたからなのか。どちらでもいいのだけれど、とにかく私の評価は『夫に冷遇される女』ではなくなっていた。
ヒューが言っていたことを思い出す。平民の女は、男の所有物でなければ安全に暮らすことができないらしい。大変な世界だと思っていたけれど、根本のところでは貴族の女も同じなのかもしれない。平民と違って身の危険はなくとも、力のある男の寵愛を受けるかどうかで周囲の扱いが変わる。本当に、この世界はくだらない。
「そんなこと、どうでもいいの」
私は切り替えるように首を横に振った。ヒューを呼び出したのは、こんな話をするためじゃない。
「ランドルフの謀略の証拠探し、あなたに依頼できるかしら」
今夜ここに来たのは、ヒューに依頼をするためだった。どこかに証拠が残っているなら、この情報屋は何か知っているかもしれない。
私の緊張を他所に、ヒューはなんとでもないというように言った。
「できるけど、できない」
「どういうこと?」
「コレだ」
親指と人差し指を丸くして私に見せる。お金、か。ため息が出る。
「どれくらいかかるものなの」
「そうだな、百の国が買えるくらいだろうか」
「そんなに?」
驚く私に、ヒューは「当り前だ」と言う。
「国を独立させるための情報だろう。そういう情報を安く売っていれば、世界は混沌になる。俺たちはそうなることを望んでいない。人ひとり逃亡させるのとはわけが違うんだ」
「……そう、よね」
なんでも頼めるものだと思っていたのだけれど、甘かったのだろう。私は本命が潰えて、がくりと肩を落とした。
「聞いてみれば? 旦那様に」
ヒューは軽く言った。
「関係が改善したなら、俺を隠す必要もないだろう。その情報にどれだけ金を掛けられるかを聞いてみればいい」
私は少しだけ考えて、すぐに否定する。
「やめておくわ」
エドワードはきっと、貴族たちの消極的賛成を得るために相当の条件を出してきたはずだ。公国の予算に余裕があるとは思えないし、もしいつか金で情報を買うことになるとしても、それは最終手段である気がする。
ヒューは先ほど「できるけど、できない」と言った。全くできないのでないならば、証拠がないというわけでもないのだろう。
「……まあ、まだあなたのことを秘密にしておきたい、というのもあるけれど」
「なんだ、また俺と逃げたくなったのか?」
「そうじゃないわ」
冗談めかすヒューに、私は真面目なまま聞いた。
「そのことについても相談したかったの。逃亡先の条件を、少し変えることってできるかしら」
「ほう」
興味深そうに右の眉を上げるヒュー。私が手招きをすると、ぐっと体を寄せた。
他に誰もいないバルコニーで、意味もないのに小声で告げる。私がこの数日間考えていたこと。シェルヴァ公国が独立した、その先の未来で、私はどこにいたいのか。
「いい判断だ」
否定されるのではないかとも思っていたから、ヒューにそう言われほっとした。そのままバルコニーの手すりに寄り掛かるように手を掛ける。
「でも結局、公国の独立が達成されないと意味がないのよね」
ランドルフが——ブリジア王国が公国を手に入れようと非道な手段を使っているという証拠。どこにいけばそんな証拠があるのだろうか。
ちらりとヒューを見上げる。国を作るための情報は金が掛かる。でも、そうでなければ?
「ねえ、今から話すことは全く新しい話題なんだけど」
私はわざとらしく、首を傾げた。
「私の今後の人生に役立つアドバイスをくださらない?」
「はぁ?」
ヒューは呆れたように頬に手をついた。
「公妃様、随分強かな女になったな」
「なんのことかしら。言っていることがよく分からないわ」
だって、これは小さな依頼で、公国の独立とか、証拠とかは関係ないのだから。
「……ったく。貴族のやり方は嫌いだ」
ヒューは舌打ちをして、考え込むように上を向いた。しばらく黙ったままそうしていたあと、不意に真面目な顔をして、私を見つめ直した。
「公妃様は、今までも勇気を出してきたと思う」
「なによ、急に」
「でもまだ、足りない」
冷たく言い切るその声に、喉元に剣を突き刺されているような気になる。私に切っ先を向けたまま、ヒューは低く言った。
「気付いてるはずだ。一番向き合わないといけないことから逃げていると」
剣先がずぷりと胸に沈んでいく。いつも胸の奥に沈めて見えない振りをしてきた、私が向き合わなければならないこと。
「ま、俺が言えるのはそこまでだな。そろそろ退散するよ」
ヒューは近くの木に移って、上を向いた。彼が帰る時にする仕草で、私は急に寂しくなる。
「帰っちゃうの? もう少し詳しく聞きたいわ」
「駄目だ、人がくる」
「え?」
ヒューが目の前から消える。すぐに後ろから大きな音楽が傾れ込んできて、バルコニーの窓が開けられたのだと分かった。
一息ついて、窓の方を振り返る。音楽が遠ざかっていく。後ろ手に扉を閉めたその男に、私は深く礼をした。
「……お久しぶりです、カーティス王子殿下」




