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8. 夜の店

 後ろを振り向くと、一人の若い男が立っていた。

 高級な絹のようなブロンドに、エメラルドの瞳。キリリとした眉に、すっと通った鼻筋。物語の世界から飛び出してきたような整った顔立ちをしているその男に、私はつい見惚れてしまう。


 男は私ににっこりと笑って、店主の方に向き直った。


「おっさん、もっと優しく言ってあげなよ」

「悪い悪い、ごめんな! 言葉が変だからよ、外国人だったらどう伝えようか迷ってたんだ」

「いえ、あの、大丈夫です!」


 縮こまる店主に恐縮して手を振ると、店主はよかったと頷いて厨房に戻っていった。

 私は安心して、今しがた私を助けてくれた男に向き直る。


「助けていただいてありがとうございます。私、こういうところに慣れていなくて」

「いーえ、銅貨はカウンターに置いておいて。隣いい?」

「もちろんです」


 隣に腰を下ろした男からふんわりとコロンの匂いが香った。甘い、バニラのような匂い。

 斜めに肘をついて、男は私を覗き込んだ。


「お嬢さん、名前は?」

「……アデル、です」


 私は咄嗟に嘘をつく。

 服装からして平民だろうこの男が私を知るはずもないけれど、どこで誰が聞いているか分からない。オフィリア・グレイが夜の酒場で男と密会してるだなんて噂が立てば、王妃様に何をされるか。


 男は私の嘘に気付くことなく続けた。


「アデルね。俺はクリス。酒場で出会ったやつにそんな丁寧な言葉使わなくていいよ」

「ありがとう、クリス。そうするわ」

「うん、アデルはお金持ちのお嬢さんだったりするの?」

「え?」


 唐突な質問に驚く私に、クリスは人差し指をくいっと曲げて、厨房の奥を指さした。


「お酒、頼み慣れていなさそうだったから」


 私はまた動揺して、しどろもどろになってしまう。


「いえ、そんな、あの、ただ、一人で酒場に来るのが初めてなだけで、お嬢様とかでは」

「そ? 今度からはお家の人と一緒に来た方がいいよ」


 どう見ても怪しい口調になってしまったけれど、クリスはそれ以上深掘りすることはなく、私は肩を撫で下ろした。


 そうしている間に、先ほどの店主が顔を出す。店主は樽ジョッキ二つとナッツの入った小皿を威勢よくカウンターに置いた。


「はい、ビール! お嬢さんさっきはごめんね! おまけつけといたから!」

「あ、ありがとうございます!」


 店主はひらひらと手を振って、また厨房に戻って行った。


 私は先ほど置かれたジョッキを掴む。持ち上げてみると思っていたより重くて、溢してしまわないように片手をジョッキの底に添えた。


「はい、じゃあ乾杯」

「わっ!」


 クリスにジョッキをぶつけられ、たぷたぷに入ったビールが一滴、跳ねてカウンターに染みを作った。

 そんなこと気にもせずに、クリスはジョッキを傾けビールを呷る。喉仏が音を立てて上下して、それがどうも美しくて、私は自分が飲むのも忘れてつい彼を見つめてしまった。


「なに? 飲まないの?」


 私の視線に気付いたのだろう、クリスは揶揄うようにジョッキを掲げた。私は恥ずかしくなって、それを隠すようにジョッキに口をつけ、傾けた。

 途端にビリビリとした刺激が口内を走る。


「なに、これ! 痛い!」


 もしかして、毒を混ぜられた? 倒れてしまわないか不安だったけれど、体に変化はなく、どうやら毒ではないようだ。


「これ、口が痺れるわ。腐っているのかも」


 不安気にクリスを見ると、クリスは目を大きく見開いた。


「嘘だろ、ビール飲んだことないの? まさか、大人びているだけで本当は子どもだったりしないよね」

「ちゃんと成人してるわ! ただ、ビールは初めてで……これ、本当にこういう飲み物なの?」


 クリスは顎を上げ、喉元を叩く。


「喉で飲むんだ。口に含んだらいけない」

「喉……?」

「そう、流し込んでごらん」


 飲み物を流し込むというやり方がいまいち分からなかったけれど、もう一度ジョッキに口をつける。言われた通りに、口に含まず飲み込んだ。そうすると、先ほど口内を攻撃したようなビリビリはすぐに通り過ぎて、喉に爽やかさだけが残る。


「どう?」

「さっきよりも飲みやすい、かも? 好きな味ではないけれど」

「そ、よかった。すぐに慣れるさ」


 クリスはくしゃっと顔を縮めたあと、もう一度私にジョッキを掲げた。


「それじゃ、改めて。アデルの夜遊びを祝して」


 カツンという乾いた音が、私の小さな冒険の始まりを告げた。


 ***


 初めての酒場は存外に楽しくて、私はいつの間にか三杯もビールを飲み干していた。手持無沙汰に空のジョッキを口元に被せると、染み込んだアルコールの匂いが流れ込んできて、くらくらする。


「大丈夫? 慣れないビールに酔っちゃった?」


 クリスは私の顔を下から覗き込んだ。

 揶揄うように片眉を上げる彼の顔は、その表情に似合わず随分と気品がある。商人をしていると言っていた。貴族を相手に商売をすることもあるのだろうか。この顔でよく愛人に召し取られなかったものだ。……なんて、下品な妄想をしてしまう。


「平気よ。お酒には強いの」

「そんなこと言って、顔赤いよ。おっさん! りんごジュースある?」


 クリスは厨房に向かって声を張った。ほどなくして届けられたりんごジュースを、私はすぐに口に含む。甘くて、私を痛めつけない飲み物。


「美味しい?」

「ええ、ビールなんかよりもよっぽど」

「はは、だろうね」


 クリスはくしゃりと笑った。

 私は彼を見つめていてはいけない気がして視線を下げる。それなのにジョッキの中でたぷんと揺れるりんごジュースはクリスに似ていて、なんだか笑ってしまう。


「どうしたの? なにかいいことでもあった?」

「……ふふ、ほら見て」

「ん?」

「あなたと同じ黄金色で、きれい」


 私はクリスの方にジョッキを傾ける。

 くるりと回して見せると、水面に光の筋が躍った。彼の髪の毛を見ると、同じようにランプの灯りを反射している。そういえば、ビールも同じ色だった。


 やっぱり酔っているのかもしれない。ただそれだけが面白くて、私は何度もジョッキとクリスを交互に見ては笑った。


 呆れたように私を見ていたクリスは、「酔っ払いめ」と大きな息を吐くと、不意に、表情を緩めた。


「少しは気が晴れた?」


 どきりとして、私はジョッキを回す手を止める。それから小さく瞬きをして、できるだけなんでもない風を装った。


「なんのことかしら」

「隠さなくてもいいよ。一人で慣れない酒場に来るなんて、よっぽど嫌なことがあったんだろう?」


 ああ、やっぱり気が付いていたんだ。私は彼と話していたこの数時間を思い返す。


 クリスはわざとらしいくらいに楽しい話ばかりをしてくれた。最初はただ話好きな人なんだと思っていたけれど、口調も、話題も、素振りも、余りにもちょうどいいから、彼が私を気遣っていることくらいすぐにわかった。


 だからと言って彼に話すようなことでもない。私は否定しようと口を開く。けれど、一度思考を巡らせてしまうと、もう、だめだった。昼間感じた屈辱が腹からぐるぐる上がってきて、そのまま弱音がこぼれ出た。


「夫にね、愛人がいるの」


 本当はずっと聞いて欲しかったのかもしれない。言葉にした瞬間、溜まっていた不満が次々とあふれ出そうになる。


 精一杯の理性で抑えつけてクリスを見ると、クリスは怪訝そうに眉を寄せていた。


「……君、結婚してたんだ」

「そうよ。三年も前に」

「それは……驚いたな」


 クリスは一瞬俯いたあと、すぐに顔を上げて私を見直した。


「信じられないな。こんなに綺麗な奥さんがいるのに愛人なんて」

「愛人は私と正反対のタイプなの。背が高くて、凛とした美しい人よ。夫は私みたいな人に興味がないの」

「そうか……離婚は考えてないの? アデルはまだ夫が好き?」


 クリスの声が一層優しくなった。情けなくて、私は無理に明るい声を出す。


「心配してくれてありがとう。でも、もともと家の事情で決まった結婚だったから、傷ついているわけじゃないわ。たまに、逃げ出したくなるだけ」

「そっか……。家の事情って、聞いてもいい? お金に困ってるとか?」

「そういうことじゃ、ないんだけど……」


 身分を隠したまま語れるほど簡単な事情ではなくて、私は口籠る。クリスはすぐに察してくれたのか、ふっと一度微笑んだきりそのまま視線を下げた。


 少しの沈黙が流れる。クリスと話していた時には気にならなかった周りの賑やかな声が、やけに流れ込んでくる。酔っ払いだらけの要領を得ない話。じゃれあいのような喧嘩や、的外れの言い合い。私はどこか心地いいその音に耳を傾けていた。


「ねえ、アデル」


 慣れない呼び方に意識を戻すと、クリスと目が合った。綺麗に細められたエメラルドの瞳。クリスはゆっくりと首を傾げて、形のいい唇を開いた。


「そんな家逃げ出して、俺と一緒になろうよ」

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