77. 傷痕
自室に戻って一人、シェルヴァ公国のために私にできることを考える。
ランドルフの養子とはいえ、私が関わることができるのは王妃様とエイベルくらいだ。もともと私はエドワードの元に送り込むための駒でしかない。万一私がランドルフを裏切ったとしても私から何かが漏れることのないように、ランドルフの者たちとの関わりは最小限にされていた。
王妃様の言動を通じて、彼らがどういう考えを持って動いているのかくらいは知ることができた。けれど、それだけだ。そんなもの、何にも使えない。
だったら今からどのようにすれば、証拠となるようなものが得られるのか。分からない。王妃様から探る? 私が? 到底、意味があるようには思えない。では、どうやって。
私の思考はノックの音に遮られた。返事をすると、先ほど別れたばかりのシャーロットが顔を出す。
「公爵様に頼まれてやってきました」
シャーロットの手には、何か丸い容器が握られていた。
「今度はハンドクリームでも試しに来たの?」
「いえ、これは傷痕に塗るクリームです」
傷痕。背中側の皮膚が思い出したように突っ張った。
シャーロットは容器のふたを開けながら言う。
「傷痕に効くクリームはないかと公爵様に聞かれまして。これは傷痕を目立たなくさせる薬なんです」
「……そう、ありがとう」
あの屈辱的な夜を思い出して、無意識に機嫌が悪くなる。それでもシャーロットは構わずに続けた。
「よろしければ横になってくださいませんか? ふくらはぎだけで構いませんから」
ふくらはぎ『だけ』とわざわざ言うということは、エドワードは彼女に私の傷が体のどこにあるのかまで話したのだろうか。
私は深く考えるのをやめて、彼女の言う通りにうつ伏せになった。シャーロットは「失礼します」と言って、私のスカートを膝まで捲り上げる。今さら悪化なんてしないはずなのに、シャーロットに見られていると思うと傷痕が疼いた。
シャーロットは「少しひやっとしますよ」と、足首から膝裏にかけてゆっくりとクリームを塗り込んでいく。あまりにも手つきが柔らかくて、私は時折体をビクつかせた。
「……申し訳ありません、公妃様」
右足を塗り終わったあたりでシャーロットが言った。
「私が愛人の振りをしたことで増えた傷もあるのではないですか」
ないわけではないが、それはシャーロットが謝ることなのだろうか。私が鞭打たれている間、彼女だって自身を危険に晒してまで囮になる道を選んでいたはずだ。
「あなたはあなたのやるべきことをやったのでしょう?」
「そうです……ええ、私は私のやるべきことをしました」
それでもシャーロットは悔しそうに唸った。
「この傷をつけたの、王妃様ですよね。罪に問えないのですか?」
「家族間のしつけは罪にならない」
「うー……」
クリームを塗り込むシャーロットの指に力が入るのが分かった。私のために怒っているのだろう。優しい人だ。
シャーロットは仕上げに両足を揉み込んで、「これで終わりです」と言った。
「ふくらはぎ、ぽかぽかしませんか?」
「ええ、温かい」
「血流を良くした方がいいんです。毎日湯浴みのあとに塗ってくださいね」
私は体を起こして、ふくらはぎに触れてみた。思った以上にさらさらしていて不快感もない。それどころか甘い匂いがして、リラックスできる気がする。彼女の領地の化粧品や薬品が人気の理由が分かる気がした。
「しっかしムカつきますね!」
シャーロットは瓶の蓋を閉めながら言った。怒りを原動力にするみたいに、思いっきり脇を上げて、勢いよく蓋を捻っている。
「ぜーったいに証拠を掴んで、あの王妃様に痛い目を見させましょう! ね!」
「……そうね」
「なんっですかそれ! 公妃様は恨めしくはないのですか!?」
私のはっきりしない返事に、シャーロットの熱は上がる。けれど。
恨めしい。なんだか、随分遠い感情のような気がする。
私はランドルフの養子に入ったばかりのことを思い出す。父母が殺された。この気高く美しい女に、私の父母が殺された。
「……あの女を絶対に同じ目に遭わせてやると、思ったこともあったわ」
「ええ、是非そうしましょう」
シャーロットはふんっと鼻を鳴らした。その姿をほほえましく思いながら、私は続ける。
「一緒に過ごすうちに分かったの。王妃様も、私も同じなのよ」
「……同じ、ですか?」
「あの人はね、ランドルフの意思決定に関われる立場にいないの。ただ、言われたことをやっているだけ。きっと私と同じ程度しか内情も知らない。教えられていない」
王妃様の近くにいれば、すぐに分かることだった。
彼女は何の力も持っていない。王妃という地位ですら彼女の権力を表すものになり得ない。
国王陛下は過去四人の妃を持ったが、どの妃とも子どもができず離縁してきた。皆、言わずとも分かっていた。国王陛下には子をつくる機能がないのだろう。
そうと分かっていながら、老いた国王陛下の元に、社交界に出たばかりの王妃様が嫁がされた。世継ぎを産めない王妃が周りからどのように見られるか、ランドルフが知らないわけがない。
王家との関係強化のために売られた女。何も知らない、空っぽの権力だけを持たされた、かわいそうな女。
私はいつからか、王妃様を恨む気持ちはなくなってしまった。こんな人を恨んでも意味がない。では、誰を恨めばいい。『ランドルフ侯爵家』? それは一体、誰のことなのだろう。具体性を失った私の憎しみは力をなくして、いつの間にか諦めに変わっていた。
「もう、誰を恨めばいいのか分からなくなってしまったの」
自虐まじりに笑うと、シャーロットは悲しそうに眉を下げた。うー、と短く唸って、それでも、と続ける。
「それでも公妃様へ暴力を振るったのは王妃様ですよね! これもランドルフに言われたままやっただけって言うんですか?」
「そうかもしれないわね」
「だったらランドルフは相当馬鹿なんですね! 子どもを作れと命令したくせに体に傷痕を残すなんて、公妃様が暴力を受けていると教えているようなものじゃないですか! そんなこと知られたら公爵様は絶対、公妃様のことを助けようとするはずですし、実際そうなりましたね。馬鹿なランドルフ! 公爵様と公妃様は仲直りしましたよ!」
「ええ、策略通り」
はぁ? と口元を歪めるシャーロットを、私は鼻で笑った。
「私の怪我を見てエドワードが態度を変えたなら、ランドルフの目的に一歩近づけたわね。話もしなかった頃と違って、エドワードが私を妻として受け入れる可能性は上がったわ」
私が誰の味方だとか、誰の敵だとかは、ランドルフにとって関係がない。ランドルフ侯爵家の者がグレイ公爵家の跡取りを産む。それ以外のことは、どうでもいいことだ。
「……醜悪」
「そういう人たちなの」
私はシャーロットの手に触れた。クリームを塗ったばかりでしっとりとしていたが、働き者の手だった。
「だから、囮なんてしてほしくなかった」
シャーロットが自分の意思で言い出したことだとしても、危険な目にあってほしくなかった。それは彼女が、私の傷痕を私以上に怒ってくれるのと同じ気持ちだ。それ以上に、私はランドルフの恐ろしさを知っている。知っているから、どうしても嫌だった。
手が触れているからか、それ以上言わなくてもシャーロットに伝わったのだろう。シャーロットはきつく歪めていた表情をふっと緩めて、少し、悲しい顔をした。
「私の過去について、話してもいいですか?」
私は彼女をしっかりと見つめて頷いた。




