75. 協力 1
↓前編の内容を振り返る記事をnoteで公開中です↓
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三度、何かが叩かれる音がして、私はゆっくり瞼を開けた。
体を起こして辺りを見回す。大窓の向こう、バルコニーの手すりの影はほとんど真下に短くあるだけで、もう昼なのだと分かった。眩しい日の光に目を細める。既視感というのだろうか、どこかで見た光景が過る。いや、違う。どこか遠くではない、つい数時間前の話だ。
——許されるなら、もう一度、君と。俺は君と、一緒にいたい。
確かに今朝、エドワードはそう言った。執務室には今と同じような、けれどもっと柔らかくて薄白んだ日が射していた。あの瞬間、胸の奥に詰まっていた孤独が溶けて、私の中から消えていく気がした。
けれど。私は半分眠ったままだった意識を引っ張り出して、続きを思いだそうとする。それがどうも、うまくいかない。その記憶だけがぽっかりと浮いていて、なんだか夢だったような気もしてくる。都合のいい夢を見るのは得意だから。
私を感傷から引き戻すようにノックの音がした。先ほど私を起こしたのはこの音だったのか。
はーい、と間の抜けた返事をすると、扉が開いてシャーロットが顔を出した。シャーロットは待たされたにもかかわらず、愉快そうに鼻と口を近くしている。
「んふ、公妃様、なんだか寝起きみたいですね」
「ええ、今起きたばかりなの」
「やっぱり。大寝坊ですね」
シャーロットは「侍女さんたちから奪ってきちゃいました」と濡れタオルを差し出した。受け取って顔を拭くと、それだけで瞼が軽くなる。眠気というものは寝ている間に体の表面にまとわりつくものなのかもしれない。だから顔を拭くと、眠気がタオルに移っていく。
「それで、用件は?」
聞けば、シャーロットは演技くさく人差し指を上げた。
「公爵様がお呼びです」
そう。小さく相槌を打つ。頭の中にはまた、夢か現か分からないエドワードの声が響いた。
ベッドから降りてドレッサーの前に座る。シャーロットに貰った化粧水を塗って、櫛で髪を梳かしていく。
「仲直り、されたんですか?」
いつの間にか横に立っていたシャーロットが、侍女の真似事のように着替えを差し出した。
「どうしてそう思うの」
「なーんですかね、なんか公爵様の表情がいつもより優しかったかなーと思って」
私はまた、そう、と答える。少しだけ、息苦しい。
「行きましょう」
着替えも終わり、笑ってしまわないように唇に力を入れて言ったのだけれど、シャーロットは部屋に入ってきたときと同じ表情をして、んふ、と笑った。
***
エドワードの書斎に向けて廊下を歩いていると、先ほどまでぼんやりしていた記憶が段々と輪郭を持ち始めてきた。
二日間、まともに寝ていなかったせいだろう。エドワードのあの言葉を聞いてすぐに、私は気が抜けたのか、体に力が入らなくなってしまったのだ。それ以上話せるような状態でなく、まずは仮眠をとってからにしようと寝室に戻った。
記憶の隙間が埋まっていくにつれて実感が湧いてくる。足の裏がうずうぐとくすぐったくて、体が跳ねそうになるのを必死で我慢した。
「公爵様、公妃様がいらっしゃいましたよ」
心の準備ができないうちに執務室に着いた。中から扉を開けたのはあの見張りだ。見張りは扉を押さえながら、執務室に足を踏み入れる私をいかにも不服そうに睨んでいる。
この男はどんな権限があって、私に無礼な態度を取るのだろう。そう思わないでもなかったけれど、一方でちょうど良かったかもしれないとも思う。今の私は、あまりにも浮かれ過ぎている。多少気が萎えるくらいがちょうどいい。
落ち着いたところで、私は顔を上げた。執務室の奥、デスクの前にエドワードが立っていた。私を見つめる灰色の瞳は幼い頃とは違うものの、それでも昨日までの鋭さは感じない。
一緒にいたい。もう何度目か、エドワードの声が頭に響く。俺は君と、一緒にいたい。
「少しは眠れたか」
うえ、と、変な声が出そうになるのを我慢し、浮かれていることに気付かれないよう「ええ」と返す。
悔しいことに、エドワードは私と違って少しの動揺もしていないようで、「そうか」とだけ言うとすぐに私から目を離した。以前と何も変わらない態度。今朝のことはやっぱり私の妄想だったのかもしれない。
落ち込み掛けた矢先、エドワードが「全員揃ったな」と言った。部下に命令を下す司令官のような声音をしていて、私たちは皆、重要な話をされるのだと理解し、エドワードの方に向き直った。緊張が走る。
エドワードは先ほど私だけに話し掛けた時よりも少しだけ声を張って言った。
「俺は彼女を——オフィリアを信用に値すると判断した。今後は彼女を引き入れ、協力を得るつもりだ」
——私の夢でも、妄想でもなかった。エドワードは今、確かに、私を信用すると言ったのだ。必死で抑えていた興奮が漏れ出そうになる。
「またですか」
ぴしゃりと頬を叩くような、冷たい声だった。私は惚けていた頭を切り替えて、声の主の方を向く。見張りの男は唇を震わせ、今にもエドワードに噛みつかんばかりの顔をしていた。
「何故今このような状況になっているのかをお忘れですか! あなたはまたそうやって簡単に同情をして、領地を危険に曝したいのですか! 何故、ランドルフの女を!」
「ウォーレン」
エドワードが見張りの言葉を遮った。そのまま一言ずつ、言い聞かせるように言う。
「何故この場にお前しか呼んでいないのかを考えたか」
見張りは答えない。だから私はその問いを自分で考えなければならなかった。
もし今、エドワードが屋敷のものたち全員に対してオフィリア・ランドルフは信用に値すると公言するとどうなるか。初めは受け入れがたいとしても、次第に警戒は薄れていくだろう。ランドルフの駒にされたかわいそうな女。惨たる謀略によって引き裂かれた二人。きっと同情も集められる。
——私がエドワードを裏切るつもりなら、その好機を見逃さない。心を開いた者たちの弱みを引き出し、脅し、グレイ家を裏切れと唆す。ちょうどあの戦場で、ランドルフの援軍がやったように。
だから見張りの男だけが呼ばれたのだ。私を信じるという判断が、もしもの時の致命傷にならないように。
「お前には今後も彼女の見張りを続けてもらう」
見張りはしぶしぶといったようにため息をついて、納得したのか、それきり黙った。
エドワードは私に向き直る。私は喜べばいいのか、信じてなんていないじゃないと怒ればいいのか分からなかったけれど、一旦余計な感情は捨てて話に集中することにした。
エドワードは言う。
「シェルヴァ公国は今、ブリジア王国からの独立を目標に交渉を進めている」
独立。二国間の情勢を知ってはいたものの、シェルヴァ公国の元首である男から聞くと妙な迫力があった。
「先のエスピナ王国との戦争において、ブリジア王国がシェルヴァ公国を見捨てたことは、今もなお国内外から批判を受けている」
これも、知っている話だ。シェルヴァ公国の扱いを目の当たりにして、自領が有事の際、同じように見捨てられる想定をしない者はいない。同盟国も同じだ。不義理を行う国をどこまで信頼できるか。
現在ブリジア王国がシェルヴァ公国との戦争に踏み切らないのも、国内外からの評価を気にしてのことだろう。
鉱山の発見という不確定要素があったとはいえ、ブリジア王国の先の戦争での振る舞いは国際的にも広く失策だったと評価されている。
「王家への不審を抱くものも多い。だからといって、手放しで独立を支援する者たちばかりではない」
「ええ。王家への信頼が揺らいでいるとしても、独立を支持するかは別問題。シェルヴァ公国を失うことは他の貴族にも損失があるもの。税収が減ると国力の低下につながる。交易にも問題が出てくるわ。それに、あの鉱山」
「ああ。だから俺は彼らに対して、そういった経済的な懸念について交渉を進めてきた。シェルヴァ公国の独立が彼らにとって得になるように、だ。結果、現時点で王室支持派以外の有力貴族たちに独立に関して消極的賛成の立場を認めさせることができている」
消極的賛成、か。
落胆しかけたけれど、つまりは表立ってシェルヴァ公国の独立のためになる行動はしないが、独立の建議が上がった際には賛成する、といった程度だろうか。であれば上々に思える。
「でも、貴族の意見がどうであれ、最終的に王室の承認がないことには独立は認められないでしょう。戦後恥ずかしげもなく公国は独立国だという宣言を撤回したような人たちが簡単に独立を認めるとは思わない」
目の前の三人が顔を見合わせた。その一拍に、今から話されることの重要性を感じとり、私は唇を噛んだ。
エドワードは私を見返し言った。
「俺たちは、ランドルフの援軍による内乱工作を切り札に交渉を進めるつもりだ」




