71. 寝室
水の音が心地よかった。
湯に浸かったまま目を瞑る。深く息を吐けば、体の疲労が溶けていくように感じた。
疲れた。疲れたということ以外考えられないくらい、疲れていた。
大切なご令嬢を侍女として預かっているのだから、当然見返りとしての教育を請け負うつもりはあった。それでも、人に何かを教えるということがこうも大変だとは。
エセル、ハリエットの二人はさすが伯爵家の娘だ。基本的な礼儀に問題はなかったし、社交にも慣れているのか、こちらの言いたいことを察することもできる。ヒラリー、カレンは礼儀作法は及第点だったけれど、社交に不慣れで意図が通じないことがあった。デイジーは……礼儀作法から教える必要がありそうだ。
仕方のないことだと思う。私だってオフィリア・ハリディだった頃、碌な礼儀を身につけていなかった。デイジーの方がマシだったかもしれない。
だから彼女たちに不満があるわけではないけれど、……疲れたと思うことは許してほしい。それくらい、疲れていた。
私は湯から上がって、タオルで体を拭いた。彼女たちに用意させた寝着に不足はなかったようだ。着替えて寝室に向かう。
早くベッドに倒れ込みたい。それだけを考えながら歩いていると、前方からヒラリーとカレン、デイジーが私の方に慌てた様子で駆け寄ってきた。
「どうしたの。寝室の準備が終わったら、今日はもう上がっていいのよ」
私が言うと、三人は勢いよく頭を下げた。
「奥様、申し訳ありません……!」
「寝室の準備が間に合いませんでした……!」
湯に流したはずの疲れが再び襲ってくる。
……仕方ない、まだ初日だ。慣れない仕事に疲れているのは彼女たちも同じだろう。指導は明日でいい。今日はもう、どこでもいいから寝たいのだ。
不機嫌を表に出さないように一拍置いて、口を開いた。
「……いいわ。使える客室があるでしょう」
「それが、客室も全て清掃中でして……どの部屋もシーツが使えないのです」
おかしい。こんな夜中に客室が全て清掃中?
それに彼女たちの表情も妙だ。仕事を全うできなかった使用人の顔ではなく、どこか、楽しそうにも見える。
「困りましたね。旦那様の寝室しか残っていません!」
デイジーが頬に手を当てて、わざとらしく言った。
私は昼間の会話を思い出す。
――奥様は、旦那様と仲直りしたんですか!
――もう、駄目ですよ、そんなことを聞いちゃ! 今ちょうど関係修復しているところなんですから! ね、公妃様?
私ははっきりと否定せず流した。侍女たちはそれを肯定と受け取ったのだろう。……それで、こんなくだらないことを。
何から言えばいいのだろう。そもそも事実を否定するか、それとも、侍女の仕事について説くべきか。……ああ、頭が回らない。
「あのね、あなたたち……」
「旦那様!」
カレンの声が私のぼんやりした頭を覚まさせる。
旦那様……? うそ、エドワードにも伝えたの?
振り向くと、エセルとハリエットに連れてこられたエドワードが訝しげにこちらを睨みつけていた。
カレンが呑気に言う。
「旦那様、申し訳ございません。奥様の寝室の準備が間に合わず、旦那様の寝室を使われるしかない状況でして」
……なんて、ことを。
エドワードの表情は動かないまま、怒りなのか、憎悪なのか、とにかく恐ろしい気配を出していた。私の体は固まってしまう。
弁解を、しなければ。
そう思うけれど、石になった体は動かない。体の中を心臓だけが暴れ回る。
エドワードは何も言わなかった。何も言わずに、体を返した。一歩踏み出し、離れていく。
「待って!」
やっと出た声。それが合図だったように、体の拘束が解けた。右足を踏み出す。膝ががくりと折れそうになったけれど、そうなる前に左足を出した。
情けない足取りでエドワードの後を追った。
すれ違いざま、エセルに下がるように言う。返事も待たず、また、走り出す。
震える足ではエドワードとの距離を縮めることはできなかった。待って、エドワード、違うの。夢の中にいる時みたいに足がふわふわ浮いてしまって、エドワードに追いつけない。それでも、走る。
やっと追いつくことができたのは、皮肉にも彼の寝室の前だった。
後ろからエドワードの手を掴む。彼に触れたのは一瞬だけで、すぐに邪険に払われた。胸が、苦しくなる。
「聞いて、エドワード」
エドワードは振り返ることはなかった。けれど足を止めて、私の話を聞いてはくれるようだ。
絶え絶えになった息を整えて、なんとか口を開く。
「私が命令したことじゃありません。あの子たちが……」
違う。こんなの、言い訳だ。
「私はあなたと寝るつもりはありません。どこか、別の部屋を……」
「君は俺の寝室を使えばいい」
エドワードは抑揚のない冷たい声で言い放った。
「俺は執務室を使う」
――ああ、私の言うことは信じてもらえなかったのだ。
エドワードは私と顔を合わせることもなく歩き出す。たった十数歩、寝室のすぐ隣。執務室に消えていく。
長い廊下に、私だけが残された。




