7. 夜の街
ヒューは目を見開いたあと、ゆっくり目尻を下げた。意地悪に口角を上げて、首を傾げる。
「もしかして、誘ってる?」
「違うわよ、いい加減にして」
私は彼から一歩離れる。
何か勘違いされてしまったかもしれない。警戒したけれど、ヒューはどうやら私をからかっただけのようで、小さく笑いながらローブを被りなおした。
「公妃様、言葉には気を付けた方がいい。また変態を呼び寄せるぞ」
「あの変態たちに私から声を掛けたことなんてないけど……なに、あなたも変態なの?」
「まさか」
「そうだと思ったから近づいたのよ」
「それはそれは、公妃様は見る目がおありのようで」
ヒューは冷やかすように片方の眉を上げた。
「それで? カードゲームでも付き合ってやればいいの?」
いつのまに持っていたのか、ヒューはトランプを混ぜ始めた。紙の擦れる音が静かな夜に響いて心地いい。だけど、カードゲームがしたくて彼を呼んだわけじゃない。
「せっかくだけど、トランプはまた今度にしましょう」
私はバルコニーの外を指さした。
「気晴らしに外に出たいんだけど、この屋敷を誰にも見つからずに出られるルートを教えてほしくて。そういう情報は売ってない?」
ヒューはトランプを宙に舞わせたかと思うと、魔法のように綺麗に手の中に収めた。
「いや、いい使い方だ。大概の人はせっかく情報屋を雇っても何か大層なことしか頼んではいけないと思っているんだ。やっぱり公妃様は、頭が柔らかくて賢いな」
「褒めてるの? それ」
「ああ、もちろん」
ヒューは一息ついて、それから肩をすくめる。
「ただ、残念ながらあんたが一人で出られるルートはない」
「そうなの?」
「だってあんた、そこの木に掴まれるか?」
バルコニーまで伸びた枝。いつもそういうルートを辿ってここまで来ていたのか。それなら私が真似できないのも仕方がない。
「なんだ、外に出られないのね」
つまらなくなって、私はため息をついた。朝まで憂鬱に過ごすか、それとも本当にヒューとカードゲームでもする?
諦めてヒューの方を見ると、ヒューはニッと口の端を上げて、私の腕を掴んだ。
「おいで、連れだしてやるよ」
「……わっ」
「しーっ、静かに」
反射的に手で口を塞ぐ。
ヒューに抱えられ、ふわりと浮いた体。私が覚悟を決める間もなく、ヒューはひょいっと木に乗り移った。私の体を支えているのはヒューの片方の腕だけで、眼下には遠く地面が広がっている。
「やだ、こわい」
「はは、ちゃんと捕まっていれば大丈夫だ」
私は落とされないように必死にヒューに抱きつく。その間にもヒューは、木に、塀に乗り移り、時には地面に降りて走った。
そうしているうちに、私たちはあっという間にタウンハウスの敷地から出ていた。振り向いて顔を上げると、塀の向こうにはもう、先ほどいたバルコニーも見えなくなっていた。
「街までは連れてってやるよ」
ヒューは速度を変えず、屋敷内と同じように塀を飛び移る。初めは怖かったけれどだんだんと慣れてきて、私はいつの間にか普段は見ることのできない景色を楽しみ始めていた。
緊張で固まっていた体の力を抜いて、自然にヒューに体を預ける。そうして、少しだけ驚いた。
「……あなた、こんなに力があったのね。体が細かったから、結構軟弱なのかと思っていたわ」
「失礼だな。細いんじゃなくて引き締まってんの」
「そうみたいね」
ペタペタと彼の肩を触ると、ヒューは揶揄うように鼻を鳴らした。
「ああ、公妃様は夫みたいな筋肉質が好きなんだっけ? 物足りなくて悪かったな」
「……ご冗談を」
「ははっ」
私を抱えてもなお、冗談を言う余裕すら持って軽やかに飛び回るヒュー。本当にこの人は同じ人間なのだろうか、俄かに疑いたくなる。猫に化かされているのか、それともまさか、お月様の妖精?
「ほら、着いた」
暗い路地。地面に降りると、体が重くなった気がした。
私は辺りを見渡した。道を抜けた先に灯りが漏れている。
一歩、踏み出す。あまりにも遅い足に苛立ちながら、光に引き寄せられるように歩く。たった数歩、進んだ時にはもう、目の前には夜の街が広がっていた。
「賑やかね、さすが王都」
落ち着いた口調を意識したけれど、心はうるさいくらいに弾んでいた。
日は沈んでいるのに、街灯で明るい道。行き交う人の笑い声。私の見たことのない、賑やかな夜。
「ねぇ、どこで遊べるの?」
はしゃぐ私に呆れたように、ヒューは息を吐いた。
「別料金だぞ」
「脱出料と合わせて後払いでいいかしら?」
「ああ。ついでにこれも被っておけ」
ふわりと投げられるローブ。出来るだけ質素な服を着てきたつもりだったが、たしかにこの街では目立ってしまうかもしれない。
いそいそと被ったローブからは何の匂いもしないのにヒューの体温だけが残っていて、なんだかやっぱり不思議な人だ。
ヒューは私がローブを被ったのを見届けると、ゆっくりと歩き出した。私はそれについていく。すれ違う人たちは皆酔っているのかご機嫌で、私まで表情が緩んでくる。
しばらくして、ヒューは立ち止まってある店を指さした。
「あの酒場は比較的治安がいい。喧嘩や物取りもいないだろう」
店先には赤い看板と割れた樽ジョッキが下げられている。これが、酒場。期待と不安で、少しだけ胃が気持ち悪い。縋りたくなって振り返ると、ヒューはぱっと手を振った。
「大丈夫だ。店の中にさえいれば女一人でも危ない目に遭うことはない」
「あなたは一緒に飲んでくれないの?」
「ああ、あんたが満足した頃に迎えに行くよ」
ヒューは切り上げるように私にいくらかの銅貨が入った小袋を渡した。そうか、お金がいるのか。ここは普段行っているような、家名で物が買える店ではない。
私の不安はますます膨らんだ。追加で料金を払うから同席してほしい。そう言おうと思ったが、ヒューはいつの間にか私の目の前から姿を消していた。
なんだか急に心細くなる。
だけど一人で帰るなんてできないし、去ったばかりのヒューをまた呼び出すのも具合が悪かった。
私は意を決して扉を開けた。
瞬間、店内から笑い声が傾れ込んできて、その勢いに体が反り返った。頭上ではカランカランと乾いたベルが鳴って、奥から威勢のいい声が響く。
「らっしゃい! 好きな席に座って!」
私に言ったのだろう。一歩、踏み出し店内を見渡す。
決して広くはない店にはカウンター席とテーブル席があった。行儀良く座っている者ばかりではなく、立ち上がって飲んでいる者もいる。
私はおそるおそる空いているカウンター席に座った。硬い木の椅子。無事席につけた安心でふうっと息をついていると、落ち着く間もなく店主が現れた。
「何にする?」
何を頼むのがいいのだろう。見渡しても、メニューを見ている客なんていない。
「あの、えっと……おすすめを」
「あ? なんだって?」
私の小さな声は騒音にかき消されてしまう。
だめ、こわい。だけど、こぶしを握って、腹に力を入れた。
「おっ、おすすめを!」
「おすすめ? ビールでいいか?」
「……はい! ありがとうございます!」
通じたことが嬉しくて、私はつい気分がよくなってしまう。ヒューにもらった小袋を出して、店主を見上げた。
「えっと、ビールは一杯おいくらですか? お会計はいつ、すれば……」
「なんだ? あんた外国人か?」
「あ、いえ……」
またなにか間違えてしまったのだろうか。さっきまで弾んでいた胸の奥が急速にしぼんでいく。
どうしよう、なんて言えばいいんだろう。
怖い顔の店主から目を逸らして俯いていると、後ろから私を助ける声が響いた。
「銅貨五枚で足りるよ」