68. 鳴らない笛
「ヒュー!」
私が呼ぶと、ヒューは人差し指を立てて「静かに」と小さく言った。慌てて口を噤む。周囲に人がいないことを念入りに確認して、私はヒューに向き直った。
「どうして来てくれなかったの?」
夜が来る度、音の出ない笛を吹いた。それなのに、私の前にヒューが現れることはなかった。
笛が壊れてしまったのか、それともヒューに見捨てられてしまったのか。ずっと不安でたまらなかった。
ヒューは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「警備が厳しくなったんだ。あれじゃ前のように気軽に会いにはいけない」
「あ……」
私が監視しろと言ったのだ。夜だけ見逃してくれるなんて都合のいいこと、起こり得ない。
「ごめんなさい。私のせいだわ」
「公妃様が勇気を出して得たものだ。俺はむしろ嬉しいよ」
果たして私は何かを得ることができたのだろうか、と思う。胸を張ってそうだとは言えないけれど、それでも確かに、私が勇気をだしたことで、変わったことはある。――ヒューが私にくれた勇気だ。
「お礼を言いたかったの。あの夜、背中を押してくれてありがとう」
せっかく素直にお礼を言ったのに、ヒューは揶揄うように顎を上げた。
「俺と逃げてくれるんじゃなかったのか? 全く、薄情だな」
私もすぐに、いつもの皮肉屋に戻る。
「よく言うわ。初めから一緒に逃げてくれる気なんてなかったでしょう? 私がその気になったらどうするつもりだったのよ」
「そりゃもう、大喜びで公妃様のナイトになるさ」
「どうかしら」
冗談に誤魔化されたけれど、実際、私の勘違いではないと思う。ヒューはあの夜、私に勇気を出させるために言っただけで、きっと、その気なんてなかった。
「あなた、演技も上手なのね」
じっとりと睨みつけると、ヒューは満足そうに笑った。そうしてふと、真面目な顔になる。
「それで、どうする? 逃亡先は、」
あ、と思った。口から出ていたかもしれない。ヒューはすぐに気付いて、続きを変えた。
「……まだいいな。公妃様の決心がついたら話をしよう」
私は黙って頷いた。
決められなかったのだ。――エドワードから逃げるという選択肢を、本当に捨ててしまえるのか。
最初に依頼をした時みたいにすぐに逃げ出したいとは思っていない。今は、どこまで出来るかは分からないけれど、エドワードと向き合おうと思っている。それでも、――向き合って、そのあとは?
だって、私はオフィリア・ランドルフだ。私にエドワードを裏切る意図がないとしても、それをエドワードに理解してもらえたとしても、私がランドルフである以上、エドワードと一緒にはいられない。ランドルフから与えられた任務を遂行できなかった私はきっと処分される。その前に逃げ出さないといけないことに変わりはない。
胸の奥がじくりと痛んだ。
少し前進し始めたと思ったのに、その先にある未来が見えない。それがすごく、苦しい。
行き止まりの思考を紛らわせたくて、私は話を変えた。
「ねえ、今まで通り呼べないなら、どうやって連絡を取ればいいの? 他の依頼者たちはこういう時どうしてるの?」
ヒューは「ああ」と短く相槌を打った。
「情報屋を雇うような奴らは大体地位のある者だ。屋敷の主人か、それに近い者。隠れてやり取りをしようなんてやつは少ないし、いたとしても監視される立場にはない」
「だったらどうすればいいの」
「そうだな。こうやってタイミングを見て俺から会いに行くよ。不便にはなるが、我慢してくれ」
つまり、私が屋敷の外で一人になる時でないと会えないということだろう。
ただでさえ見張りが厳しいのに、侍女がつくとなると一人の時間はもっと減ってしまう。今みたいに、パーティの途中に抜け出すとか? 出入りが管理できるバルコニーなら一人にしてくれるだろうか。でも、それ以外には? 思い浮かばない。
「寂しい」
洩れた言葉は、思ったよりも感傷的に響いた。否定するように、わざと明るい声を出す。
「あなたに会うためにパーティにたくさん参加しないといけなくなるわね。忙しいの、好きじゃないのに」
ヒューも私に合わせてくれて、いつものように返した。
「これを機に公爵夫人らしく社交界の影響力を強めるなんてどうだ」
「ええ、そうするわ」
私はどこか不自然な返事を誤魔化すように口の端を吊り上げた。
***
正直に言うと不安だった。
ヒューを簡単に呼び出せなくなる。私の側にいてくれなくなる。
彼はただの情報屋だ。お金を払って私の欲しい情報をくれる。でも、それだけじゃなかった。私が惨めなとき、いつも隣にいてくれた。愚痴を聞いてくれて、外に連れ出してくれて、私の背中を押してくれた。
大丈夫。完全に契約が終わったわけじゃない。彼はまだ私の情報屋だ。――でも、いつまで?
寂しい。寂しくて、心許なくて、心臓に何か嫌なものが沁みてくる感じがする。
パーティ会場に近づいていく。ロマンチックな音楽がだんだんと大きくなる。それが余計に私の不安を煽った。私はヒューなしでやっていけるのだろうか。
扉が開いて、賑わいが雪崩のように襲ってくる。シャンデリアの明るさに耐えられなくて、私は目を瞑った。
「オフィリア」
瞬き程度の時間だったと思う。私はすぐに目を開く。
目の前ではパーティの灯りを背にしたエドワードが私に手を差し出していた。




