66. 降りない月
エドワードの応接室の前、私は深呼吸を一つした。
ここへ来るのは、やっぱり恐ろしい。私一人だったら自室に戻っていたかもしれない。
それでも、ありがたいことに後ろから私を睨みつける見張りがいる。見張りがいるからこそ、部屋の前まで来ておきながら引き返すなんて怪しい行動は取れなくなる。
どうせ中に入るしかないんだと覚悟を決めてノックをした。中からエドワードの声が聞こえる。もう一度息を吐いて、私は扉を開けた。
エドワードは部屋の最奥のデスクに座っていた。顔を上げ、入ってきたのが私だと分かると分かりやすく眉を寄せた。それだけで、私の勇気はしぼんでいく。
「……君か」
エドワードは立ち上がった。そのままでいいのに、わざわざソファに座りなおす。長居をするつもりはなかったのだけれど、私も仕方なくエドワードの向かい側に座った。
紅茶があればいいのにと思った。そうすれば、少なくとも紅茶を飲む間の数秒、黙っていても違和感がなくなるし、視線の置き所もできる。
今、私たちの間にはそういったものが何もなくて、ただ私を凝視するエドワードの前で体を縮こまらせていた。
このままではだめだ。私は口だけ開いて、無理やりに声を出した。
「侍、女の選定についてなんですが」
声が裏返った。
変な声だと笑ってくれればいいのに……なんて思うけれど、エドワードが笑ってくれるわけないじゃない。
私は咳払いをして続ける。
「親しくしているご令嬢たちが、是非侍女になりたいと言ってくれていて」
また、私の中に恐怖が湧いてくる。
エドワードに何か言われる前に、彼女たちのことを細かに説明しはじめる。どういう家門の子たちで、どういう付き合い方をしているのか。話せば話すほど早口になった。
「つまり、ランドルフ侯爵家とは関係のない家門です。私の個人的な付き合いなので……」
口を開きかけるエドワードを、抑えつけるように私は言う。
「もし怪しいと思えば断って頂いても構いません。ただ、聞いてみただけなので。私の味方を増やそうとか、そういう意図は……」
「調べはついている」
遮られ、心臓が潰れそうになる。
私はエドワードの口元にくぎづけになる。彼が何を調べて、何を思ったのか。唇が開く。逃げ出したくて、足の指が縮こまっていく。
「君の言う通り彼女たちの家門にランドルフとの繋がりはなかった」
ほっと息をついた。
エドワードは私の後ろの見張りに視線を送る。見張りが言う。
「本日直接見た印象でも、警戒が必要なようには見えませんでした」
見張りは「相当な女優でもない限り」と付け足した。
今日のあの無礼は彼女たちを見定めていたのか。ランドルフ家と関わりのない家門なのに私と付き合いのある妙なご令嬢たちを怪しんで。
「こちらでも候補は立てておいた。三日後参加するパーティで君に紹介しよう。君の選んだ三人と、俺の選んだ者たちを侍女につけようと思う。実際に会って気に入らなければ言ってくれて構わない」
三日後のパーティ。準備があるのでもう少し早めに教えてほしかった。
けれど今余計な事を言ってもいい結果にはならないだろう。どんな文句もぐっと呑み込む。
「……分かりました」
話は以上です。そう言って、立ち上がる。
胸の中に消化しきれないものを抱えたまま執務室を後にした。
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自室で一人になると、ベッドに倒れ込んだ。
体がずっと緊張していた。無視をされるよりはマシだと思ったのだけれど、疑われるのもいいものではなかった。自分が言ったことだと何度も繰り返して、受け入れる振りをする。それでもやっぱり、エドワードの視線は私を委縮させた。
ほんの少しだけど、近づけた気がした。私を疑うと言ったエドワードは、私を信じたいように思えた。それも今では勘違いだったようにも思う。結局私はまだ、彼のことが何も分からないままだ。
ベッドに座りなおして伸びをする。そのまま立ち上がって、バルコニーに向かった。
私は笛を取り出して、ヒューを呼ぶ。先日、エドワードの話を聞かせてくれた日以来で、どこか気恥ずかしさはあったけれど、きちんとお礼を言いたかったのだ。
それなのに、いくら待ってもヒューは来なかった。
嘘でしょう。また私を揶揄ってるの?
バルコニーに伸びる木を覗き込んで、どこかに隠れているんじゃないかと探し回る。つまらないわよ。そういう冗談は気に入らないって、言ったじゃない。
文句を言うように、夜空に向かって笛を吹く。何度も何度も、笛を吹く。音の出ない笛を、息切れがするくらい何度も吹いた。
――それでもその夜、ヒューが私の元に現れることはなかった。




