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64. 君を疑って

 美しい離宮の応接室は、私にとっては牢獄のような場所だった。今日は一体何を言われるのか、拳を握りしめて罪状を待つ。

 処刑人である王妃様は私の緊張など意にも介さないようにちらりと横目だけで私を見た。


「月のものがきたそうね」


 ああ、そんなことか。拍子抜けして、つい鼻で笑いそうになる。もちろん本当に笑うなんてできないから、私は口だけで謝りながら頭を下げた。


 王妃様の美しいドレスの裾が視界に入る。少しの乱れもない精緻な刺繍。その模様を目でなぞりながら、私は少し安堵した。王妃様でもエドワードの寝室までは監視することができなかったのか、と。


 ――あの夜。エイベルに妙な薬を飲まされた夜。エドワードは一晩中、私の熱を発散させただけだった。彼の情欲のようなものを感じる時もあったけれど、それを私にぶつけることはしなかった。

 私たちの間には閨事と言えるような行為はなかったのだ。王妃様の期待する子どもなんて、できるわけがない。


「ほんと、使えない」


 私の浅ましい嘲りは、たった一言でどこかへ飛んでいった。

 聞き慣れた声音。王妃様がそう言えば次に何が起こるのか、私の体は十分に知っている。


 王妃様が侍女たちに何か指示をしているのが聞こえた。毛穴から汗がじんわりと滲み出てくる。

 数秒後、すぐ後ろから、ばしんと何かが打ち付けられる音がした。


「立ちなさい」


 頭よりも先に体が従う。


 振り向いた先、王妃様の手には杖が握られていた。

 体から血が引いていくのを感じながら、頭だけは冷静に考える。杖で殴られるのは鞭と違って血が出ない。今日の罰は随分優しいんですね。


 王妃様が杖を振りかぶる。来るべき痛みに耐えられるよう、私は身体を固め、ぎゅっと目を閉じた。


 けれど、どれだけ待っても私に痛みが来ることはなかった。恐る恐る目を開けると、王妃様は訝しげに扉の外を睨んでいる。


 何があったのだろう。私も同じように扉の方へ意識を向けると、自分の心音にかき消されていた周囲の音がだんだんと聞こえるようになってくる。廊下を走る複数人の足音と言い争う声。静謐な離宮に不釣り合いの喧騒だった。


「様子を見てきなさい」


 侍女たちが頷き扉を開ける。瞬間、逃げ込むように執事が倒れ込んできた。


「王妃殿下、グレイ公爵が!」


 ――不自然に、音が止まった。


 しんとした空間に、扉の向こうからわざとらしい靴の音が響き渡る。一歩、二歩。その音に、皆が黙って注目する。三歩、四歩。五歩目の音が響いた時、音の主が姿を見せた。


 エドワードはいつも通り威圧的な佇まいで、けれどこの状況に似合わない丁寧な礼をした。


「王妃殿下にご挨拶申し上げます」

「随分無礼な来訪だこと」


 咎める王妃様に、エドワードは少しも怯むことなく近づいていく。そうして王妃様と、未だ状況の掴めない私の前に立ちはだかると、顎を上げたまま王妃様を見下ろした。


「その杖は何にお使いになるつもりでしたか」

「膝を悪くしているのよ」


 王妃様は見せつけるように杖で床を二回突いた。衝撃が床から伝ってきて、私に与えられるはずだったその痛みに身体中の筋肉が収縮した。


 エドワードはそれ以上食って掛かることなく、けれど今まで以上に横柄に言った。


「妻を迎えに参りました」


 つまを、むかえに?

 理解できずにただ頭の中を通り過ぎる。むかえに、まいりました、つまを、むかえに。言葉がうまく、繋がらない。


 その意味が分かったのは、エドワードが振り返って私の手首を掴んだ時だった。


「行くぞ、オフィリア」


 ぐんと引っ張られると、何の準備もできてなかった足がもつれそうになった。なんとかバランスを取って、引き摺られないように足を動かす。つまを、むかえに。……もしかしてエドワードは、私を迎えにきたの?


 嘘、嘘だ。だって、今まで迎えに来てくれたことなんてなかったじゃない。私がこの部屋でどんな傷を負ったとしても、痛み止めで誤魔化して一人で帰るしかなかったはずだ。


 また何か幻覚を見る薬でも飲まされたのだろうか。現実逃避をしてみても、手首に感じる体温は確かにエドワードのものだった。


 牢獄だった応接室には鉄格子なんてなかった。エドワードに引っ張られるままたった一歩踏み出すだけで、私は罰を負うこともなく出ていくことができたのだ。


 ぼんやりとしたまま、エドワードについていく。足が浮いているみたいだった。


 後ろから王妃様の「良くやりなさいね」と言う声がしたけれど、私はそれに応えなかった。


 ***


 目の端に映る景色が勢いよく流れていく。なんとなく、初めてヒューに屋敷の外に連れていってもらった時のことを思い出した。お月様の妖精に掴まって夜空を飛んだあの日と違って今はただ馬車に乗っているだけなのに、どこか夢のようにふわふわしていた。


 私の前に座るエドワードは、私を連れ出しておきながら決して目を合わせようとしなかった。エドワードの横顔に聞きたいことがいくつも浮かんだけれど、結局私は何一つ声に出すことができなかった。


 タウンハウスに到着する。

 エドワードはいつも通り律儀に私をエスコートしようと手を差し出した。指先が触れる。グローブ越しに、互いの震えが伝わった。居た堪れなくなって、今度は私が目を逸らした。


 馬車を降りる。いつもより、時間をかけて。そうして地面に両足がついた瞬間、底知れぬ恐怖が込み上げてくる。私は今、期待をしてしまっている。一度も叶えられたことのない期待だ。どうせ、裏切られる。そういう恐怖だった。


 俯いたまま指先に力を入れた。この手を離してしまうと、全部が消えてなくなってしまうんじゃないかと思った。私があの日勇気を出したことも、エドワードが今王妃様の離宮から私を連れ出したことも、全部。このまま私たちは何もなかったようにお互いの部屋に戻り、同じような――また、お互いをいない者として生きていくんじゃないか。


 離さないで、お願い。お願い、エドワード。力の入らない彼の手を、震える手で握る。握りながらも、この手を振り払われるのを想像した。本当に振り払われた時に傷つきたくなくて、ほら、やっぱりそうだった。私はきちんと分かっていたわと諦めるためだった。


 現実はいつも私を裏切る。


 指先に私のものではない力を感じた。エドワードに握り返されたのだ。私は驚いて、顔を上げた。


「君に監視をつける」


 目が合った、狼の瞳は揺れていた。あの夜、私を疑ってほしいと言った日。執務室で見せた表情と同じだった。弱くて、情けない顔。


「君の言う通り、君を監視しようと思う。君を疑って、調べて、君を――」


 エドワードの言葉はそこで途切れた。それなのに、どこかから彼の声が聞こえた気がした。


 ――君を、信じたい。


 息が止まった。見開いた瞼を閉じることができなくて、乾いた瞳が熱を持つ。

 エドワードが、私と向き合うことを決めてくれた。私を疑って――信じようとしてくれている。


 浅く息を吐く。時間が動き出して、心臓が震えだす。


 嘘、また嘘をついているんでしょう。私を騙そうとしてるんでしょう。確かめるようにエドワードを見る。消えてしまうんじゃないかと思ったけれど、昼間の日が照ったエントランスではエドワードが隠れるような暗闇もなかった。声にならない声を上げる。応えるようにエドワードが頷いた。それだけで、ここが現実なんだと信じることができた。


 私たちはそれ以上何も言わなかった。何を言えばいいのか分からなかったのだと思う。それでもせめて、繋いだ指先から何かが伝わるように、どうか伝わるように、お互いの手を強く握りしめた。

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