63. 私を疑って
自室に戻ってもどこか別の場所にいるみたいだった。
ロッキングチェアを揺らしながら本に手を伸ばしてみたものの、文字が目を滑るばかりで頭に入らない。本を閉じ装丁を眺めてはまた開き、ぱらぱらとページをめくってはまた閉じて。繰り返すのに飽きて、私はバルコニーに出た。
夜空には真ん丸の月が一つ浮かんでいた。ヒューの声が思い出される。
――公妃様も勇気を出してよ。
勇気。私の持つべき勇気はどんなものなのだろう。
全てを忘れて逃げ出すことが勇気だと思っていた。けれどそれは、間違いだった。
――少なくともあなたは三年間、公爵のことをどうでもいいと思えなかったのでしょう。だったらきっと、それが本当の気持ちなのよ。
本当の気持ち。私の本当の気持ちはなんだろう。
エドワードと話すのは恐ろしい。それでもずっと、どうでもいいなんて思えなかった。
――間違ってしまったとしても、お互いの意思さえあれば新しく関係を築けると思っているからね。
間違いだらけだった。それでも私は、今からでも新しい何かを築くことができるのだろうか。
風が吹いて体がぶるりと震えた。夜、寝着のまま外に出られる時期はとっくに終わっている。
肩を抱きながら部屋に戻る。
窓を閉めると、示し合わせたように部屋の扉が開いた。
扉の向こう、エドワードの補佐官が無言で私を睨みつけている。私に使われたことが不満なのだろうか。それでもこの男は、話があるから時間を作るようエドワードに伝えてほしいという私の言いつけを無視はしなかったようだ。
黙って歩き出す補佐官の後ろをついていく。長い廊下の先に待つ、エドワードの執務室。
執務室の中は随分と暗くて、エドワードの影がぼんやりと暗闇に滲んでいた。
補佐官が出ていくと、エドワードと二人きりになる。
息苦しいと思った。この部屋はいつも、空気が薄いんじゃないかと思うくらいに息苦しい。浅い呼吸を繰り返しているうちに、心臓まで苦しくなっていく。
十分に私を苦しめた沈黙は、エドワードの低い声で破られた。
「なんの用だ」
――あ。こわ、い。
覚悟をしてきたはずなのに、私の体は恐怖に囚われた。
無意識に俯くと、ドレスのスカートが揺れていた。膝が笑っているのだ。
恐怖は弱気になった私を誘惑する。この男と向き合う必要なんてあるのか。ヒューと一緒に逃げれば、全てを忘れて幸せになれるかもしれないだろう。自ら傷つきに行く必要が、どこにある。
同調する前に、頭を振って誘惑を追い払う。誘惑が戻ってくる前に私は急いでおまじないを引っ張り出した。
"勇気を、出してよ"
「……わ、たしに、……監視をつけてください」
か細く震えた声は静かな空間に溶けていった。
信じてほしいとは言えなかった。
俺はオフィリア・ランドルフを信じることはできない。この先、一生。そう言わなければならなかったこの男に、どうして信じてなんて言えるだろう。
だからこそ、信じることができないからこそ、私を疑ってほしかった。疑ってほしいと言うことが、精一杯の勇気だった。それだけしかできなかった。
それだけだったから、エドワードには届かなかったのかもしれない。執務室には彼の微動だにしない影と沈黙が残った。
空気の音だけが聞こえた。その静寂はあまりにも深くて、私の勇気なんて初めからなかったかのように飲み込んだ。
暗闇はじわじわと侵食していく。この部屋には私しかいないのではないだろうか。私一人で虚空に向かって喚いている。そんな錯覚がした。それくらい、エドワードを感じることができなかった。
何分経ったのだろう。ついには耳鳴りがしはじめて、私はもう、彼の言葉を待つのをやめようと思った。少しだけ、気持ちが良かった。私はもう、エドワードと向き合わなくていいんだ。この期に及んで私はまだそんなことを考えている。そんなことを考えているから、エドワードにも届かなかった。
そんな堂々巡りにも諦めて部屋を出ようとした、時だった。
「……君、が」
幻聴だと思った。それでも確かに、エドワードの声だった。
顔を上げる。真っ暗な中、目を凝らす。
エドワードの唇が震えていた。それでも確かに、動いている。
「……君が、本当に俺を陥れようとしていたら、……俺は、どうしたらいい」
酷く、情けない声だった。それなのに、鋭く研がれた矢のように私の心臓を貫いた。
――同じだ。
エドワードは、私を知ることを恐れているんだ。
この三年間、私のことをいくらでも調べることもできたはずだ。エドワードはそれをせずに、ただ私から目を逸らしていた。その理由が、自分の望まぬ現実がそこにあることに耐えられそうになかったからだったとしたら。怖くて、堪らなくて、だから何も気付かないふりをして、私をいないものとすることを選んだのだとしたら。
私の妄想だ。全部、私の気持ちを勝手にエドワードに当てはめているだけ。それでも今は、私たちは同じなんだと信じたかった。
「勇気を、出してよ」
彼に言ったのか、自分自身に言ったのか分からない。それでも何度も繰り返した。勇気を出して。勇気を、出して。
「私があなたを陥れようとしているのか、調べる勇気を出してよ。疑って、それで、一生、信じなくてもいいから……」
大きな声ではなかったのに、息切れをしていた。肩が上下する。頭が痛くて、倒れてしまいそうで、そうならないよう必死にエドワードを睨みつけた。
エドワードは変わらず何も言わなかった。それでもなぜだか、私を無視をしているわけではないんだと分かった。彼はきっと、恐怖と戦っている。数分前の私と同じように。
「エドワード」
名前を呼んだ。これ以上の言葉は意味がないことを知っていたから、ただ、その名を呼んだ。
あの頃と同じであればいいと思った。私たちがただ友人だった頃。何も知らない子どもたちが、花のように、星のように、そこにあるがままにお互いの名前を呼んでいた頃と、どうか同じ響きになるように。
――私の声があなたに届くように、ただ、願っていた。




