62. 本当の気持ち 2
その時、会話の間を狙ったようにノックの音がした。
グレンダ様が返事をすると、扉の向こうからアドルフ様が遠慮がちに顔を出した。
「アドルフ様……!」
「ああ、いい、座ったままで」
挨拶をしようと立ち上がる私を、アドルフ様は片手で制した。そのままゆったりとした足取りで私達のところまで来るとグレンダ様の隣に腰を下ろされた。
「邪魔したかな? 先日珍しい茶を手に入れたから淹れてやろうと思って来たんだが」
後から入ってきたメイドがワゴンからティーセットを下ろした。アドルフ様は慣れた手つきでキャディーから茶葉をすくってポットに移していく。
「そんな。アドルフ様に淹れていただくなんて……」
「好きでやってるんだよ」
「ここに来るきっかけがほしかっただけでしょう」
グレンダ様が「私たち二人とも気付いていますよ」と指摘すると、アドルフ様は声を出して笑った。
「許してくれ。彼女に入ってくるなと言われていたんだが、どうしても君たちの会話に入れてほしくてね」
「仕方のない人!」
微笑みあうお二人に、緊張していた心がほどけていくのを感じた。心だけじゃない、体だって随分力が入っていたようだ。縮こまっていた肩を下ろす。拳を開いて、足の指を解く。深く息を吐くと、ようやく自分のコントロールを取り戻せた気がした。
こぽこぽと可愛らしい音を立てて、お湯が注がれていく。蓋を閉じて蒸らしている間、アドルフ様は幼子に童話を聞かせるように思い出話を聞かせてくださった。
療養先では今までしてこなかったことをしていたんだよ。自分で紅茶を淹れてみるだけではなくて、花を植えたり、刺繍をしたり。変に思うかい。それでも私は『バリー侯爵』が絶対しないだろうことをしたかったんだ。
ゆったりとした時間が流れていく。
「ああいうことは、案外難しいものだね。ほとんどが物にならなかったが、紅茶だけは自信があるんだ」
アドルフ様は蒸らし終わった紅茶をティーカップに注いだ。紅茶の滝は光を反射していて、琥珀が溶けているみたいだ、と思った。
「さあ、召し上がれ」
私は一番に差し出されたカップを素直に受け取った。
ティーカップを持ち上げると、湯気がふんわりと香る。その香りを楽しみながら一口含むと、甘味を含んだ柔らかな渋みが鼻腔に広がった。
「……美味しいです、本当に」
「そうだろう。この茶葉は少し甘いんだ。何杯でも飲みなさい」
自慢げに言うアドルフ様がなんだかおかしかった。
アドルフ様は自身の淹れた紅茶を飲むと、その出来栄えに頷いた。今日はいつも以上にうまく淹れられたみたいね。グレンダ様が言う。ああ、まだまだ上達できそうだ。アドルフ様が応える。それだけでお二人が長い間こうしてアドルフ様の淹れる紅茶を楽しまれてきたのだと分かった。
「君を長い間一人にしてしまったことを悔いているんだ」
アドルフ様は前振りもなく、それまでとなにも変わらないトーンで言った。
昔の話をされると思っていなかったから、私はすぐに反応することができなかった。そういう隙を狙っていたのかもしれない。私の準備が整う前に、アドルフ様は続けた。
「君のご両親が亡くなった時、葬儀に間に合わなかったとしても、一日でも顔を見せるべきだった。自分の出る幕ではないと思っていたが、あの頃君を支えられたのは、きっと私しかいなかった」
そんな、気になさらないでください。言いたかったのに、頭の中にあの頃の絶望が押し掛けてきて声が出なくなる。
両親の葬儀が終わって一人きりになった屋敷。私の隣にいたのは、私を利用するランドルフだった。
「負い目もあって長らく連絡を取ることもしなかった。それでも、……図々しいと思うかい。君に再会したらね、君は子どもの頃と変わったところもたくさんあったが、相変わらず可愛いオフィリアお嬢ちゃんだった」
今度はクロージングパーティでの再会を思い出す。懐かしさについアドルフおじいちゃんと呼ぶ私に、アドルフ様もなんら迷うことなくオフィリアお嬢ちゃんと返してくださった。私はもう、子どもの頃とは何もかも違っていたはずなのに、何も変わらず接してくださった。
「だから今からでも君の『アドルフおじいちゃん』でいさせてもらえるように、こうしてご機嫌を伺っているんだよ。間違ってしまったとしても、お互いの意思さえあれば新しく関係を築けると思っているからね」
アドルフおじいちゃん。子どもの私が呼んだ。私はもうお嬢ちゃんなんかじゃないのに、頭の中で繰り返す。おじいちゃん、おじいちゃん。
私はまだ、甘えても許されるのだろうか。
「それにしても失礼な子だったわ」
グレンダ様は頬に手をついて、揶揄うような目つきをした。
「あなたが子どもの頃、私はまだおばあちゃんなんて年齢じゃなかったのに」
「はは! ああ、君はそれも怒っていたな」
「本当よ。失礼しちゃう」
「……ふふ、すみません。ほんとう、に……」
笑った瞬間、何かが溶けたように体の力が抜けていった。
少し滲んだだけかと思った涙は、次々とこぼれ落ちて、止まらなくなる。
お二人はあまりにもお優しい。
私はきっと相談をしたかったのではなくて、本当はただ、怖いって、弱音を言いたかったんだ。怖いよ、助けてよって。本当は逃げ出したい、でも、それじゃだめなことも分かってる。分かってるけど、怖いんだよ。そうやって泣きだしても、ただ笑って許してほしかった。それだけだったんだ。
「あらあら。ほんとうにもう、いつまで経ってもお嬢ちゃんなんだから」
グレンダ様は涙が止まらない私をあやすようにそう言ってハンカチを差し出した。
「またいらっしゃい。今度はおばあちゃんがお茶を淹れてあげますから」
私はぐしゃぐしゃな涙を拭きながら、何度も頷いた。




