60. かわいそうな男の話 2
何が起こったのか分からなかった。誰もその場を動くことができなかった。
数秒後、宴会場から悲鳴が上がる。騎士団長が血溜まりの上に倒れていた。
Aが、呆然とする男に襲いかかる。
男は反射だけでそれを避け、やっと状況を理解した。いや、理解なんてできていなかったのかもしれない。それでも今、この場で命令を出せるのは男だけだった。
反逆者を捕えろ。
騎士たちは目が覚めたようにはっとし、剣に手を伸ばした。二人はすぐに捕えられたが、その間にまた別の誰かが倒れていた。混乱の中、誰が反逆者なのか判断がつかない。睨み合いが続くうちに、またどこかで人が倒れ、反逆者を捕らえる。再度睨み合いが続く。その繰り返しだ。気がつけば夜が明け、朝になっていた。
捕えた反逆者は七名。
その場で斬り捨てた者もいたが、なんとか二名、生け捕りにすることができた。そのうち一人はAだった。
どうしてこんなことを。
男は二人に尋問した。Aは、震える声で言う。子どもが。すぐにAの首から血飛沫が飛ぶ。傍にいた別の騎士が首を刎ねたんだ。――そうだ。口止めだ。
首を刎ねた者は、残った一人も仕留めると、自らが捕らえる前に自死をした。その時点で、反逆者と認識できていた者たちが全て命を落とした。理由も聞けぬままに。
大きな疑念が蔓延していく。反逆者はまだ、潜んでいる。残された騎士たちは拭いきれぬ不信に囚われることとなる。
それでも男たちは領地へ帰還しなければならない。数日かかる道のりだ。隣の者がいつ自分に剣を向けるか分からない。眠ることもできない。戦争は勝利で終わったはずなのに、男たちの空気はまさに戦場そのものだった。
領地に帰還する。
男はどれ程の反逆者が忍んでいるのか分からぬまま、それでも父亡き今、一人で戦後処理を行わなければならなかった。
信頼できるのは騎士団長の息子を含めた数人だけだ。数人で反逆者を炙り出し、その目的を掴まなければならない。
報告が入る。
Aの荷物からはAと同じ赤毛の束が見つかった。細くて柔らかい、子どもの毛。Aの最期の言葉を思い出す。子どもが、と言っていた。人質に取られたのだ。――誰に?
調べても分からなかった。男の妻子は何も知らず、領地で呑気に暮らしていた。脅された様子もない。あの髪の毛は誰のものなのか。どうして、こんなことが起こったのか。
反逆者は皆死んでしまって、話を聞くことすらできない。虱潰しに調べても、脅迫の証拠は見つからない。
戦後処理は続いていく。
隣国との講和は父親と話を固めていたこともありうまくまとまった。男にとって領主としての初めての仕事だ。混沌の中、よくやったと思う。
問題は隣国との講和ではなかった。
シェルヴァ公国を見放したブリジア王国が今さらになって公国は王国の一部だと主張しだした。
男は疑った。内乱を画策したのは王国ではないのか。王国は父親と後継の自分を殺して、戦後鉱山ごとシェルヴァ公国を手に入れる算段だったのではないのかと。
だが一体、いつの間に反逆者を作り出したのだろう。その答えもすぐに思いついた。ランドルフ侯爵家の援軍だ。あの援軍は、公国軍に入り込み反逆者たちを増やすためのものだったのだ。
――男は気付いてしまった。援軍の受け入れを父親に進言したのは、男自身だ。父親の言う通り援軍を受け入れなければ被害は最小限に防げたかもしれないのに。
男は日々、憔悴していく。自分の判断で公国が危機に追い込まれているという自責。そんな自分がブリジア王国と渡り合わなければならない。自分の判断は正しいのか。教えてくれる父親はいない。自分が殺したようなものだ。
誰も頼ることができない。誰のせいで? そう、自分のせいだ。だからといって、他の誰かに戦後処理を任せることもできない。自分の周りには、一体あと何人反逆者が潜んでいるのだろう。
地獄だ。
男は地獄の中にいた。戦場よりも深い地獄だ。
眠れぬ日々が続く。自分が眠れば反逆者が殺しにくるだろう。死ねば、公国はどうなる? 王国の者たちのやることなど目に見えている。公国民を王国に差し出すわけにはいかない。
限界だった。
誰かに支えて欲しかった。
男はふらつきながらある場所に向かった。――ハリディ男爵領だ。そこには味方になってくれる男爵がいるはずだ。好きな女もいる。どうか助けてくれと、馬を走らせた。
ハリディ家の屋敷には、ハリディ男爵の弟がいた。酒浸りで酔っ払った弟は男に言う。
――兄夫婦は死んだ。帰ってくれ。娘? ……ああ、あの女は領地を捨てたよ。親不孝の、裏切り者め。
……そうだな。悪い。この話はいい。あんたの知っている通りだ。
とにかく、男の希望はそこで断たれた。男は一人、地獄に戻る。眠れぬ日々が続いていく。
やるべきことはたくさんあった。戦時中は補佐官に任せきりにしていた領地の管理、戦死した騎士の家族への補償、援助を受けた貴族たちへの礼、鉱山の開発。それに、ブリジア王国との独立交渉。
男は独立のデメリットも十分に理解していたが、それでも今の状況でブリジア王国の領地のままでいることの方が危険だと気付いていた。
跡継ぎがいぬままに自分が殺されれば、領地は有耶無耶なまま王国所有になるだろう。そうなれば公国民の安全は保証できない。
歴史的に公国が王国に臣従していた事実と独立を認める公的文書の欠如から、今すぐに独立ができる状況ではなかった。だが王国も無理に独立を切り捨てることもできなかった。当初シェルヴァ公国を見放した事実は国内の貴族たちからの批判も出ており、力づくでの交渉は内政の混乱に繋がる危険があった。双方、戦争が始められぬ理由もあった。
そこで結ばれた一時の和平が――男と、ランドルフ侯爵家の養子との婚姻だ。
男は現状を受け入れる他ないと判断した。独立を目指すにしても準備がいる。時間を稼ぐことができるなら結婚くらいなんでもない。
ランドルフ侯爵家の算段は想像できた。グレイ公爵家に妻という名の間諜を忍ばせ、動向を探る。戦場で援軍にさせたように、公爵家の者を脅迫し、内部から反乱者を出すかもしれないし、隙があれば男を殺すかもしれない。
だが、丸腰だったあの時とは違う。寧ろ手の内が分かっている今では証拠を掴むことができるかもしれない。証拠さえあれば、ランドルフ侯爵家を糾弾できる。
そうして迎えた結婚式――男は花嫁の姿を見て、絶望した。
オフィリア・ハリディ。男の好きだった女がそこにいた。
どうして。男は混乱した。
何を奪われた。何を人質にされた。ハリディ男爵はもうこの世にいない。他に親しい親族もいないはずだ。では一体何を――そうか、領地か。
男はハリディ男爵領を訪れたあと、多忙の中でも少しの情報を得ていた。ハリディ男爵の死後、ハリディ男爵領はランドルフ侯爵家のものになったが、宥和政策として男爵領の管理はハリディ男爵の弟が行っている、と。
女は領地を人質に取られているのだ。だから、ランドルフに逆らえず――男を陥れようとしている?
結婚式が終わり、男は執務室で項垂れた。
うそだ。まさか彼女が自分を陥れるはずがない。きっと、何かの間違いだ。そうだ、彼女の話を聞かなくては。二人きりになれる初夜の時間。そこで、話を――
男の元に、騎士たちが訪ねてきた。その目には深い憎悪が滲んでいた。
――ランドルフの女に会いにいくつもりですか。
その眼差しに、男は動けなくなる。
ランドルフ侯爵家に人質を取られ、従う者。それを受け入れればどうなるか。男は十分に知っていた。
男の頭にはAの顔が浮かんだ。ずっと何かに怯えていた。怯えながら、男の父親を殺した。Aの本心や忠誠心など関係がない。奪われぬために、奪うしかなかったのだろう。
男は分かっていた。自分がもう、感情だけで国を危険に晒す立場にないことを。
男は長い時間執務室にいた。
頭の中に幼い頃の優しい思い出が浮かんでは消えた。
それを上書きするように、血腥い光景が浸み出してくる。公国を守るために命を差し出した男たち。父の死に際の後ろ姿。公国を裏切ったAの首。血、血、血。
気が狂いそうだった。男の上には、あまりにも多くの命が乗っていた。
執務室から動けぬまま夜が明けた。朝日に照らされながら、男は覚悟を決めた。
幼かった頃の自分は、あの戦争で死んだのだ。幸せだった頃の思い出だとか、初恋だとか、そういうものと一緒に、全部死んでしまった。
公国を守るためには、別人にならなければならない。何を捨てても、誰を犠牲にしても、公国のために生きる。――それが、男ができる唯一の償いだった。
***
「あんたの夫はさ、もうずっと、壊れちゃってるんだよ」
涸れたはずの涙が性懲りも無く溢れ出た。苦しくて、息ができなかった。
「あの夫は、公妃様と関わるとどうしても昔の弱い自分がでてきてしまうから、公妃様を無視した。それでも耐えられなくて、頭の中で公妃様を悪女に仕立て上げたりもした。ランドルフの女だと憎んで、憎んで、でも本心ではないから、心がぐちゃぐちゃになって、それが苦しくてまた憎んで。――そうでもしなければ、一人で公国を守ることなんてできなかったんだ」
ヒューの声が頭を通り過ぎていく。
私はもう、何も考えられなかった。ただ、エドワードの過ごした地獄のことを考えるだけでいっぱいだった。
ヒューはこれ以上は受け止めきれないと悟ってくれたのだろう。私に返事を求めることもしなかった。
「俺は公妃様が逃げることを否定しない。……俺と逃げたくなったら、また呼んでくれ」
それだけ言って、部屋を出て行った。
一人残された私は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
私の置かれた地獄。エドワードの過ごした地獄。その光景が重なっては、離れていく。
中途半端に空いたままの窓から風が吹き込んだ。誘われるようにバルコニーに出る。風、草の匂い、鳥の声。顔を上げた。いつの間にか空が白み始めていた。馬鹿みたいに美しい朝だと思った。本当に、馬鹿みたいだった。
私はそれから長い時間、ただ、空の色が変わっていくのを眺めていた。




