6. ドレス
客の前なのに不機嫌を隠そうともしない態度。私はため息をついて振り返った。
エドワードは威圧をするように顎を上げて、私を見下ろしている。そんなことしなくても私と彼の身長差なら簡単に見下ろせるだろうに。
エドワードの隣には、彼にエスコートされてきたのだろうシャーロットがいた。シャーロットは私と目が合うと、エドワードの腕を掴んだままぺこりと頭を下げるだけの挨拶をした。二人揃って私を見下すのが好きみたいね。
そんな挑発に乗りたくもない。私はこの場を去るために、二人に丁寧な礼をした。
「私の客だと勘違いしたメイドに呼ばれたのです。あなたが来られたのなら、私は失礼致します」
険悪な雰囲気に戸惑う仕立て屋に目配せをして、私は部屋を出ようと一歩踏み出した。
「公妃様、お待ちください!」
聞き慣れない、だけど印象的なハスキーな声が私を呼び止める。一体なんなんだと睨み上げれば、シャーロットは怯むことなく唇の両端をくっと上げた。
「せっかくいらしたのですから、公妃様が私のドレスを選んでくださいませんか?」
……はぁ? と、叫びたいのをすんでのところで我慢する。
なんで私がそんなことを? 私に、愛人のドレスを選べですって?
「……シャーロット、余計なことを」
「いいじゃないですか、公爵様! 社交界に慣れた公妃様の方が、ドレスには詳しいでしょうし」
シャーロットを窘めるエドワードに、彼女は甘えるような声を出す。
分かっている。これは侮辱だ。彼女は私を侮辱したいのだ。苛立って、息がしづらくなる。
だけど、周りには仕立て屋や使用人がいる。ここで感情的に怒れば、あとで何を言われるか。社交界に噂が広まるのは、驚くほど早い。
「……分かりましたわ」
私は不快感を抑えて了承した。今最善の行動は、きっと、『愛人に嫉妬して場所も考えず喚く悪妻』ではなく『夫のお遊びに付き合う寛大な妻』だ。そう信じるしかない。
「こちらへいらっしゃい」
シャーロットに視線をやると、シャーロットはエドワードに目だけで合図してゆったりと足を進めた。
私が彼女の立場だったら居心地が悪くて堪らないのに、どうやら彼女は見た目通り豪胆な性格らしく、私の隣までくると好奇心を秘めた表情で私を見下ろした。長身の彼女が隣にくると、私はいつも気持ちが萎えてしまう。
彼女は私と真逆の心境なのか、嬉しそうに話し出した。
「公妃様にドレスを選んでいただけるなんて光栄です。最初にお会いした日にご挨拶をしたきり、お話する機会も頂けませんでしたので」
私がエドワードの愛人にわざわざ会うとでも思っていたのだろうか。相手をするのも面倒で、私はドレスを選ぶ振りで顔を逸らす。
「あなた、好みは? 普段はどんなドレスを着ているのかしら」
「お恥ずかしながら自分でドレスを選んだことがないのです」
「……そう」
平民の出なのだろうか。そうなると、エドワードとはどこで出会ったのだろう。……そんなことを聞いて、二人に興味があると思われたくない。
頭の中から疑問を追い出して、ドレス選びに集中する。
綺麗な人だ。程よく筋肉のついた体は社交界で流行りの体型ではないけれど、芸術品のようにも思える。彼女自身が洗練された宝石のようで、無駄に飾り付ければ、却ってその良さが消されてしまうだろう。
仕立て屋は私が着ることを想定したドレスを選んで持ってきたに違いない。淡く優しい色合いのドレスの中で彼女に似合うものを探すのは簡単ではなかったが、部屋の奥、おそらく選ばれないだろうと身を縮めていたドレスたちに目が留まった。
「あれが似合うと思うわ」
私はくすんだ紫色のドレスを指さした。マーメイドラインのシンプルな形の代わりに、生地に細かなレースが施されている。
「……素敵。私の好みです。公妃様、私……」
「好みに合うようでよかったわ。試着していらっしゃい」
まだ何か言いた気な彼女を残して、私はすぐに踵を返した。おしゃべりな彼女にこれ以上付き合っていたくなかったのだけど、どうやら彼女はそれを許してくれないらしい。
「公妃様、試着が終わるまで待っていてくださいね!」
人前でお願いされてしまえば、私は無視をすることもできない。
仕方なく、私はエドワードの座っているソファに向かう。だけど彼の隣にも向かいにも座る気にならず、中途半端に斜め前に腰を下ろした。
エドワードの前だからか、普段なら私を無視するメイドが紅茶を注ぐ。無礼な彼女はそれでも腕は確かなのか、ティーカップからふんわりと華やかな香りが漂って、私の気持ちも幾分か和らいだ。
私はちらりと目を上げ、エドワードを盗み見る。
幸いなことに彼も私と話したくもないのか、黙って紅茶を飲んでいた。息苦しい空気。だけど、会話をするよりマシだ。
私も彼に倣ってティーカップに口をつけた。
「こ、公爵閣下」
いつの間にかソファの側まで来ていた仕立て屋が、緊張した様子で私に目くばせをした。それからもう一度エドワードに視線を戻し、揉み手する。
「奥様のドレスはいかがいたしましょうか」
……余計なことを。反射的に湧き上がる苛立ちをどうにか抑える。
彼は悪くない。むしろ、私に気を使ったつもりなのだ。彼を呼び寄せるのはいつも私だから、私の機嫌を取ろうと思ったのだろう。……全く、逆効果なのだけれど。
すぐに答えないエドワードに、仕立て屋は弁明するように早口で続ける。
「ご覧ください、閣下。本日は『春の妖精』と謡われる奥様にぴったりのドレスばかりをご用意いたしました。是非、お二人で、ご覧になるだけでも」
エドワードの眉がぴくりと動いた。それだけで、応接室の空気が変わる。これ以上余計なことを言えば斬りつけられてしまうのじゃないかと、そういう空気だ。
エドワードはゆっくりとティーカップを机に置いた。そうして、咎めるように低く言った。
「『春の妖精』、ね」
――それは、私を歌った、あの気持ちの悪い曲。
「……馬鹿にしてるの?」
「いいや。ただ、君はああいうロマンチックな男が好みなのかと思っただけだ。ご丁寧に情事のことまで歌にされるなんて」
なんのことだか分からない私を、エドワードは目の端で笑った。
「君の肌に指を埋めた感触、だったか?」
頭がカッと熱くなる。
私はただ、オペラハウスで他の人と同じように作曲家と挨拶を交わしただけだ。もしかしたらグローブ越しに握手くらいはしたかもしれないが、覚えてすらいない。肌を埋めるどころか触れたこともないのに。
それなのに、まさかあの歌を信じて、私を汚らしいと罵りたいの? それで私を責められると思っているの?
感情に任せて罵らないよう、何度も深く息を吐く。そのたびに頭がくらくらして、どうにかなってしまいそうだった。
「……あんなの、ただの気持ち悪い妄想よ。私を罵りたいのなら、もっと信憑性のある不貞の証拠を出すといいわ」
やっと出た声は震えていた。エドワードの顔なんて見たくない。右手を額に当てて、視界を覆った。
「公爵様、試着が終わりました」
空気が読めているのか、いないのか。カラッとした声が聞こえて、私は顔を上げ振り向いた。
私の選んだドレスを着たシャーロット。
「公爵様、公妃様、いかがですか?」
「……驚いた。確かに似合っている」
でしょうね。彼女に似合うものを選んだんですもの。なんで親切にそんなことをしちゃったのかしら。本当に、悲しくなるほど、似合っている。
美しいシャーロットも、彼女に見惚れるエドワードも見ていたくなくて、私はすぐに俯いた。
仕立て屋が彼女に似合う宝石を紹介する。エドワードが全て買うと言う。私にはそんなもの買ってくれたことないのに、なんて、くだらないことを考える。
「ああ、これとセットになるスーツも用意してくれ」
後ろから聞こえてくるエドワードの言葉に、惨めで、哀れで、どうしようもない気持ちになった。
正妻の前で愛人とお揃いのスーツを頼むだなんて、どうかしてるわ。
音を立てないように立ち上がる。誰とも顔を合わせずに、応接室を出ていく。客前なのにとか、自分勝手に拗ねたとか、もう、何を言われてもどうでもよくなった。
私はただ、これ以上彼らと一緒にいたくなかった。
***
バルコニーにつながる窓を開けると、夜の冷たい風が吹き込んできた。寒いのは嫌いだ。悲しくなるから。
フェンスに腕を掛け、顔を上げると、私を馬鹿にしているような澄んだ夜空が広がっていた。歪に削れた月に向かって、私は笛を吹く。
やっぱり、何も鳴らない。
もう一度、息を吹き込んでみる。
バルコニーから見える世界はあまりにも静かで、私はその世界を少しも濁すことができなくて、鼻の奥が痛くなった。
私、騙されたのかな。
心の空洞が広がっていく。私は諦めて部屋に戻ろうと体を返した。
「……っ」
窓の前。私の前に現れた、夜空の男。
「そんなに吹かなくても聞こえてるよ」
ヒューはいたずらが成功した子どものように笑った。
「私を驚かせようとしたの?」
「ああ、気に入らなかったか?」
「気に入らないわ。私、あなたに騙されたと思った」
前金を取られ、音の鳴らない笛を渡されて、情けなく信じて吹き続ける。
さっきまでの自分が愚かで、それなのにふざけて隠れていたヒューに安心するのも恥ずかしかった。
「前金を貰ってるんだ。呼ばれたらちゃんと来るよ」
ヒューは少しでも申し訳なく思ってくれたのか、ローブで表情を隠した。
「それで、何の用だ?」
ぶっきらぼうな言い方。
私は顔を合わせないヒューに近付いて、ローブで隠れた顔を下から覗き込んだ。つい数分前に見上げていた月が、彼の目の中に浮かんでいる。
なんだか世界が狭くなったようで、私は掻き消すために彼のローブをばさっと取り払った。
「おい、何……」
「私、遊びたいの」
瞳の中のお月様が、まんまるに広がった。